こだわりアカデミー
弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。
稲のたどってきた道
静岡大学農学部助教授
佐藤 洋一郎 氏
さとう よういちろう
1952年、和歌山県生れ。77年京都大学農学部卒業。79年同大学大学院農学研究科修士課程修了。農学博士。国立遺伝学研究所助手を経て、94年現職に。著書に『DNAが語る稲作文明』(96年、日本放送出版協会)、『稲のきた道』(92年、裳華房)、『稲とはどんな植物か−コメ再考』(95年、三一書房)、『DNA考古学』(99年、東洋書店)、『森と田んぼの危機(クライシス)−植物遺伝学の視点から』(99年、朝日新聞社)、『縄文農耕の世界−DNA分析で何がわかったか』(2000年、PHP研究所)など。
2001年9月号掲載
身近な存在にも関わらず、意外と謎の多い植物「稲」
──先生のご著書『DNAが語る稲作文明』を、大変興味深く読ませていただき、これまで私達が学校で教わってきた日本の稲作の起源や縄文文化の通説を次々と覆していらっしゃる内容に驚きました。今日は、日本の稲作の起源を中心にお話を伺いたいと思います。
ところで先生は、やはり遺伝学の見地から稲の研究を始められたのですか?
佐藤 育種学(※)から稲の研究に入り、今でこそDNAを使って研究をしていますが、もともとはフィールドワークが中心で、これまで日本に限らずアジア各国で調査研究をしてきました。
──先生が研究を始められた頃、稲作の起源については、どのように考えられていたのでしょうか?
佐藤 インドのアッサムや中国の雲南が起源だというのが通説でした。この説は、1977年に発表されたもので、建物の煉瓦に含まれているモミの長さなどを元に推測したものだったのです。
それまで稲の起源については、議論はされていても、科学的な根拠などが乏しかったので、この説は当時としては非常に説得力のあるものでした。
──「でした」ということは・・・。
中国の慶州で発見された2000年前の稲のモミ。空気が遮断された状態にあったため、そのままの状態で見付かった(写真上)。 河姆渡遺跡から出土した7000年前の土器。猪のような動物か描かれている(写真下) (写真提供:佐藤洋一郎氏) |
佐藤 実は「アッサム−雲南説」が発表される4年前に、中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、今から7000年前の遺跡が発見され、そこから炭化米や稲作に使われていたと思われる道具などが出土したんです。しかし残念なことに、当時は、それがあまり重要ととらえられず、大した調査もされなかった・・・。
──それほどまでに、「アッサム−雲南説」が強かったともいえますね。
佐藤 はい。しかしここ数年の調査で、河姆渡からは栽培稲だけでなく、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見され、さらに野生稲から栽培稲へと変っていった痕跡も発見されています。以前は7000年前という年代の真偽が問われたこともありましたが、現在、最も信頼できる手法を用いて出土したモミを測定したところ、確かにその時代のものだと証明されています。それで私は、稲作の起源は長江流域にあるのではと思うようになりました。
水田栽培だけが稲作ではない!?高度な技術は不要?
──7000年前の稲作というのは、どのようなものだったのか、興味が湧きますね。
佐藤 その前に、稲は、大きく分けるとインディカとジャポニカの2種類あります。さらにジャポニカというのは、温帯ジャポニカといって一般に水稲と呼ばれている水田栽培向きの品種と、熱帯ジャポニカという一般に陸稲と呼ばれている畑作向きの品種の2種類に分れます。
──インディカというのは、私達にはあまり馴染みのないものですね。
佐藤 そうですね。私達に馴染み深いのは、やはりジャポニカです。実は私は、この長江流域を起源とする品種もジャポニカだと思っているんです。またその栽培方法は、ただ地面にモミを播くだけという雑駁(ざっぱく)農耕だったのではないかと考えています。
というのも長江流域というのは湿地帯ですから稲の栽培に向いている。モミを播くだけで稲が育つんです。現にアジア各国をまわってみると分るのですが、水田で稲作をしているのは半分くらい、あとの半分は今でも雑駁農耕が行なわれています。
ラオスで現在も行なわれている焼き畑による稲作 (写真提供:佐藤洋一郎氏) |
──稲作というと水田と思いがちですが・・・
佐藤 ところが、稲作は水田でなくてもできるのです。現在の日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。
──何か発見があったのですか?
佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができます。最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されています。
それで1990年代に入って、ようやく縄文時代にも稲作があったということが考古学界でも認められるようになりました。
三内丸山遺跡に見られる高度な「縄文農耕」
──縄文人が稲作をしていたということになると、学生時代に教わった縄文人とは、随分イメージが変ってきます。
佐藤 それだけではありません。皆さんご存知かと思いますが、青森に三内丸山遺跡という縄文遺跡があります。およそ5000年前のものと考えられていますが、私は以前、ここで縄文人が、クリを大量に栽培していたという新説を発表して、学界を騒がせたことがあるのです。
──その新説も随分と物議を醸したのではありませんか?
佐藤 はい。皆さん縄文人というと、狩猟などで生計を立てていたという野蛮なイメージをお持ちでしたからね。そんな縄文人達がクリを栽培していたとなれば、考古学界だって黙ってはいません(笑)。
──そこに先生が一石を投じたというわけですね(笑)。
佐藤 そういうことになりますね・・・(笑)。
なぜそういう説が成り立ったかというと、普通、野生植物の集団というのは、DNAの並びはバラバラなのです。しかし三内丸山遺跡のクリの場合は、見事な程にDNAパターンが揃っていました。これは意図的に選抜して植林したためとしか思えません。そうなるとクリを育てるという高度なノウハウが、4000年以上も前からあったと推測できます。
さらに、ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されています。
──なるほど。それだけの農耕ができるのであれば、稲作があって当然という気がしますね。
佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
しかし、私がジャポニカの起源だと考える長江流域は、案外日本から近いですからね。別のルートで日本に伝来していてもおかしくないんです。
朝鮮半島には存在しない、中国固有の水稲が出土!
──ところで、弥生時代の稲作でも興味深い発見があったとか。
佐藤 1995年に、私の勤務する静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ水田跡が発見されました。この水田跡は、古墳時代のもので、3−4畳半程の小区画が連続しているという形状をしています。
──5万−uとは、また随分広いですね。
佐藤 収穫量を計算してみたら、少なく見積っても15tくらい。100人以上が米だけで暮らすことのできる量ですが、当時のその地域の人口はそんなに多くなかったのです。
そこでその一角の土を調べてみたところ、水田ではなく休耕田が含まれていたと判明しました。結局、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらにDNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。
──せっかくの水田で陸稲を栽培していた!?
佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する特徴です。
そうしたことから私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性があると思うわけです。
──なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人が朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析というのは、本当にいろいろなことが分りますね。
佐藤 これだけじゃないんですよ。実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類 |
──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?
佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
──確かに、有力な証拠ですね。
佐藤 求められるのはいつもそこですから(笑)。実際、柳田國男氏が「海上の道」と呼んだ、熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達するといわれる道筋は、南西諸島に稲作跡がないのを理由に、物語としてしか扱われていなかったですからね。
──お話を伺って、縄文時代だけでなく、弥生時代のイメージも随分と変りそうです。
佐藤 余談になりますが、私は卑弥呼も弥生人ではなく縄文人だったのではないかと思っているんです。というのも、まず入れ墨をしていた、そして海に潜って魚を獲っていたというのが弥生人らしくないですよね。さらに、生姜やみょうがなどのハーブ類を食べなかったというのも気になります。生姜やみょうがというのは、中国大陸から伝来したものですから、渡来してきた弥生人が食べないはずがないんです。
──そういわれてみると、卑弥呼がお酒を飲んでいたという記述も気になりますね。
本日は、大胆な仮説の数々を大変楽しく伺わせていただきました。ところで、今後はどのような研究をお考えですか?
佐藤 日本中のいろいろな時代のいろいろな遺跡の稲のDNAを調べて、どこからどのルートでその遺跡に稲作が伝わってきたのかを調べたいですね。それにより、日本人のルーツさえも見えてくると思うんです。
これまでいくつかの新説を発表してきましたが、周囲からは最近「今度はあなたが追われる番ですよ」なんていわれているんです。覚悟しなければ!
──いやいや、今後も新しい発見を伺うのを楽しみにしております。本日はありがとうございました。
『DNAが語る稲作文明』(日本放送出版協会) |
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