こだわりアカデミー
はるばる海を渡って野生化した植物。 都会の緑の90%が、そんな「帰化植物」達なんです。
都会の緑−−帰化植物
東京歯科大学名誉教授
淺井 康宏 氏
あさい やすひろ
あさい やすひろ 1933年、東京都生れ。58年、東京歯科大学卒業、71年、同大学教授。同大学附属病院保存治療科部長、同歯科衛生士専門学校長、同大学副学長、全国歯科衛生士教育協議会会長などを経て、2001年より現職。歯学博士。社団法人日本植物友の会会長。この間、76年より99年まで横浜国立大学教育学部(現・教育人間科学部)で非常勤講師として帰化植物を講じる。著書に『緑の侵入者たち 帰化植物のはなし〈朝日選書〉』(93年、朝日新聞社)など。帰化植物に関する編著、論文多数。
2003年8月号掲載
子供の頃から植物少年。命名第1号は「マメアサガオ」
──道端に何気なく咲く野草達の中に、外国からやってきて日本に定着した「帰化植物」があることは知っていたのですが、先生のご著書『緑の侵入者たち』を読んで、その数が想像以上に多いことを知り、大変驚きました。
本日は帰化植物についてお話を伺えるということで楽しみにしていますが、そもそも先生のご専門は歯科の臨床学でいらっしゃいます。なぜ帰化植物の研究をされているのかを、まずは教えていただけますか?
淺井 歯科臨床医になったのは、家業が歯科関係で半ば仕方なくなんです(笑)。私としては、子供の頃から好きだった植物の研究を本業にしたかったのですが、「戦後の食うや食わずの時代に、そんなことをしても一文にもならない」と猛反対を受けまして…。結局、歯科の道に進むことを了解したのですが、その交換条件として植物の研究を続けることと、研究にかかる諸費用を親に出してもらうことにしたのです。今考えると随分わがままな話ですが、それだけ植物にはまっていたんです。よく許してくれたと、今となっては感謝しています。
──なるほど。それにしても、あまたある植物研究の中で、「帰化植物」を選ばれたのはどうしてですか?
淺井 帰化植物に興味を持ったのは中学生の時です。当時は戦後の食糧難の時代で、アメリカやカナダなどから援助物資として大量の穀物が輸入されており、それらに混ざって雑草の種子が入ってきていました。
その頃私は、珍しい植物を採集しては標本作りに励んでいたのですが、ある時−−高校に入った頃でしたが、見たこともないかわいらしい花を見付けたのです。そこで、当時愛蔵していた『帰化植物』という本の著者、東邦大学薬学部の久内清孝先生に標本をお送りしたんです。そうしたら、なんとそれが日本に未記録の外来種、つまり新顔の帰化植物だとのお返事をいただいて…。それが、私が初めて命名した「マメアサガオ(豆朝顔)」なんですが、あの時の興奮は今でも忘れられません。それ以来、帰化植物の研究に熱中してしまったというわけです。
──日本での第1発見者になったわけですから、それは大変な感動だったでしょうね。
それにしても、久内先生はよく見知らぬ高校生の質問に答えてくださいましたね。
マメアサガオ。ヒルガオ科の1年草。淺井氏命名第1号の帰化植物。夏から秋にかけて、直径2センチメートルほどの白い花を咲かせる (写真提供:淺井康宏氏) |
淺井 私もまさか返事をいただけるとは思ってもいませんでした。しかも、先生は私が名付けたマメアサガオという和名で、学会誌へ発表までしてくださいました。それ以来、先生にはすっかりお世話になり、96歳で亡くなられるまで、本当にかわいがっていただいたんです。私が今日まで研究を続けてこられたのも、先生のおかげだと思っています。
──そうだったのですか。
それにしても歯科臨床医になるだけでも大変なのに、帰化植物研究との両立はさぞかし苦労されたのではないですか?
淺井 学生時代は平日は歯科学、休日は植物学という具合で割り切っていました。たまたま大学が小石川植物園や東京大学の植物学教室に、比較的近いところにあったので、よくそこにお邪魔して、久内先生に著名な研究者の方々を紹介していただいたりしたんです。おかげでネットワークが広がって、いろいろな情報を得られるようになりました。
それに、帰化植物の生育地は主に都会の市街地ですから、遠くの野山などに出掛ける必要もない。だから、忙しい合間を縫ってなんとか続けてこられたのです。
『緑の侵入者たち 帰化植物のはなし〈朝日選書〉』(朝日新聞社) |
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