こだわりアカデミー
氷河に生きる昆虫がいる! それに端を発した研究は、今や地球環境問題にも 寄与しています。
氷河に棲む生き物たち
東京工業大学大学院生命理工学研究科助教授
幸島 司郎 氏
こうしま しろう

こうしま しろう 1955年、愛知県生れ。京都大学入学後、山岳部に入部。山登りに精を出し過ぎたためか、大学6年、大学院5年の長い学生生活を送り、85年、同大学大学院理学研究科博士課程満期退学。日本学術振興会奨励研究員、同特別研究員、京都大学研修員などを経て、90年より現職。35歳まで無職、と異色の経歴を持つ。理学博士。氷河ボーリングで掘り出したアイスコア中の生物の痕跡をもとに、過去の気候や環境を復元する研究も進めている。
2003年1月号掲載
真冬にしか生きられない昆虫の奇妙な生活史
──先生は、氷河に住む昆虫の研究をしていらっしゃるそうですが、氷河といえば、雪と氷の世界です。そんな所に生物が、ましてや昆虫がいるなんて想像もつかないのですが。
幸島 昆虫といえば夏と相場が決まっていますからね。実は、専門家の間でも、氷河に生き物が生息できるわけがないと長年信じられてきました。ですが、本当にいるんです(笑)。
──先生がおっしゃるのですから、確かに氷河の世界に昆虫がいるんでしょう(笑)。しかし、いないと信じられてきたものを研究しようだなんて…。まずは、その経緯をお伺いしたいのですが。
幸島 実は、私はもともとサルの研究をしたいと思っていたんです。しかし、大学時代、山岳部に席を置いたことで、道がそれてしまって…(笑)。とにかく年中山に登っていたので、勉強の方がちょっと…。
その上、サルの研究にはすでに、先達がたくさんいらっしゃり、今更私の出る幕はない。そこで、大学院進学を目指すには、それまで人がやっていないテーマを見付けなければならなかったのです。そんな時、京都大学で教鞭を執っておられた日高敏隆先生に「そんなに山が好きならば、山でできる研究を探して来い!」とアドバイスを受けたのがきっかけです。
──しかし、それで雪や氷の世界に住む昆虫を選ばれるとは、発想がユニークですね。
幸島 以前、雪山を登山中に、「夏にこの辺りにいっぱい飛んでいる虫たちは、冬はどこでどうしているんだろう?」と、ふと思ったことがあったのです。
そしてその後、北アルプスの剣沢雪渓を歩いていた時に、なんと足元の雪の上を黒い虫が走り回っているのを見付けたのです!
──まさか! と思われたでしょうね。ですが、一方で人間の衣類に付いてやってきたのでは、などとは思われなかったのですか?
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セッケイカワゲラ。雑食性で、雪の上にある有機物ならば何でも食べてしまうという。真冬こそが彼らの生活の表舞台なのだ |
幸島 初めはそう思いました。ところが1匹や2匹でなく、何匹もいたんです! さらにその虫には、羽がなかった。結局、私が見た虫はセッケイカワゲラというカワゲラの一種だったのですが、こいつがとんでもないヤツで…(笑)。
いずれにせよ、その時点では雪の上で活動する虫がいる、ということくらいしか分っていませんでした。しかし、その後、なんで低温でも活動できるのだろう? 雪の上で一体何をしているんだろう? と、不思議でたまらなくなりまして、それで卒業研究のテーマを「セッケイカワゲラの生態と行動」にしたのです。
──それから先生の、雪山に住む昆虫探しが始まったのですね?
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クモガタガガンボ、珍虫とされてきたが、真冬のしかも夜中の雪山では、容易に見付けることができるという。体長は5mm−1cm程 |
幸島 はい。その後、各地の雪山などで探してみると、ユスリカ、トビムシ、ガガンボ、タマバチなど実に様々な虫を見付けることができました。結局、それまで雪山に登って昆虫採集をしようと思う人がいなかっただけなんですね(笑)。
早速、手始めにセッケイカワゲラの体温を測ってみました。体長は8ミリ程度ですが、真っ黒い色をしていますから、昼間は太陽光を燦々と浴びて、きっと体温も上がっているだろうと思ったのです。ところが驚くべきことに、何度測っても気温が0度の時は体温も0度、マイナス10度の時はマイナス10度なんです。逆に手のひらに乗せて温めてやると、そのうちに痙攣を起こして動けなくなってしまった…。
──「寒くても動ける」ではなく、「寒くないと動けない」ということですか?
幸島 その通り。さらに調査を進めてみると、多くの昆虫とは、まったく逆の生活体系が明らかになったのです。
──水生昆虫といえば、水中にいるか夏に孵化して飛び回るものと認識しております。それが逆とは?
幸島 雪の世界を好んで暮らす昆虫たちは、春の雪解け時期に渓流の水中に卵を生み、その後孵化した幼虫は、体長1ミリほどの状態で川底に潜り、夏の間は眠って過ごします。そして渓流に大量の落ち葉が流入する秋になると、起き出して落ち葉を食べて急速に成長し、成虫となって一番寒い時期に雪の上に上陸するのです。
──わざわざ極寒の雪の上を選ばなくてもいいでしょうに…。それに、水中昆虫は、はかなく死んでしまうというイメージが強いのですが…。
幸島 確かに大部分のカワゲラは、成虫になり交尾、産卵を終えるとまもなく死んでしまいます。ところが、このセッケイカワゲラという虫は、非常に寿命が長いんです。
──地上ならまだしも、雪の上ではそんなに長生きする必要もないように思いますが。
幸島 私もそこが引っかかりました。そこで、日がな一日セッケイカワゲラの追跡調査をしてみたんです。
羽がないので、とにかくてくてく歩き回っているのですが、何日もその行動を追ってみたところ、どの虫も川の上流に向かって歩みを進めているということが分りました。
──どの虫も、ということは、上流を目指す必要性があるわけですね?
幸島 ええ。彼らは、卵と幼虫時代を渓流の中で過ごすため、成虫になるまでにどんどん下流に流されてしまいます。言い換えれば、そのままでは分布域がどんどん下流へ移動してしまうわけです。特定の流域でないと生きられない彼らにとって、これは死活問題ですから、どこかで修正しなければならない。そこで成虫は、上流へ移動してから産卵する必要があるというわけです。飛んで行けたら楽なのでしょうが、あいにく羽がないので、一心不乱に歩かざるを得ない。
──ちょっと待ってください。成虫が行動する真冬の時期は、川は凍って雪に覆われてしまっているはずです。決して真っ直ぐではない川の位置を認識し、上流を目指すなんてことができるのでしょうか?
幸島 実は、私もそこが一番の難題で、謎解きに10年もかかってしまったんですよ(笑)。
──ぜひその秘密を教えてください!
幸島 なんと太陽コンパスを利用していたのです。しかし、これは単に方位を知る手段に過ぎません。彼らは、太陽コンパスを使って直進しながらも、斜面の最大傾斜方向を測って歩みを進めていたのです。とはいえ、斜面の方向が変ったことを瞬時に判断することはできないようで、しばらく歩いて右足だけが非常に疲れるなとでも思えば、最大傾斜はこっちだなと徐々に方向を修正し、上流を目指すというわけです。
──いやいや、お見逸れしました。そんなに小さな虫が、でこぼこの雪の上で太陽を利用し、地形を測って動いているとは! また、先生も極寒の中で、よくそこまで解明されましたね。
世界初、氷河で新種の昆虫を発見!
──先生は、日本の雪の世界に住む昆虫を研究されてから、氷河の世界にも昆虫が生息しているはずだ! と確信されたそうですね。
幸島 「昆虫は寒い所では生きられない」というのが誤った固定観念であることが分ってから、いつかヒマラヤの氷河に昆虫採集に出掛けてみたいと思っていました。
幸運にも1982年に、ヒマラヤの氷河でのボーリング調査に参加することになったのです。
──昆虫の研究をされている先生がボーリング調査ですか!−
幸島 ええ(笑)。氷河の万年雪を掘り出し、そこに含まれる化学成分を分析して、過去の気候や環境を調べるのです。どうしてもヒマラヤに行ってみたかった私は、土木作業担当のアルバイトとして参加したんです(笑)。それでその時に、とうとう見付けてしまったのです!
──氷河に住む昆虫…。
幸島 はい。その虫は体長は3ミリ程度で、黒っぽい色をしていました。一応、羽も持っているのですが、小さく退化してしまっていて飛ぶにはまったく役に立たない。ですからセッケイカワゲラ同様、歩き回り、雪や氷の間に潜り込んだりしながら生活していました。
──それが、学名に発見者である先生のお名前が付いている「Diamesa kohshimai」ですか?
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(左下)ヒョウガユスリカ。 |
幸島 ええ。恥ずかしいので私は「ヒョウガユスリカ」と呼んでいますが(笑)。
昆虫は変温動物なのに、ヒョウガユスリカは零下16度でも活動することができます。これは昆虫が活動する最低温度の世界新記録なんです(笑)。ちなみに、幼虫も見付けることができたんですよ。
──それは大発見でしたね。ところで、セッケイカワゲラは幼虫期を落ち葉など餌が豊富な場所で過ごすということですが、氷河ではそうもいきません。とすると、ヒョウガユスリカは何を食べて成長するのですか?
幸島 解剖して消化管の中身を調べたところ、直径1ミリくらいの泥の塊のようなものが出てきました。保存をしようとアルコールに漬けてみたら、なんと液体が緑色に変っていくではありませんか!
早速、表面を見てみると、糸状の藍藻がぎっしり生えており、雪氷藻類とバクテリアと有機物が固まった微生物複合体であることが判明しました。氷河の世界では、光合成生産などできるわけがないと信じられてきましたが、これも誤った固定観念だったわけです。
──氷河に植物とは、またもや信じがたい事実ですが…。
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糸状藍藻が鉱物粒子を取り込みながら成長するクリオコナイト粒 |
幸島 驚くのはまだ早いですよ(笑)。その微生物複合体は、クリオコナイト粒といって、実は、ヒョウガユスリカの幼虫だけでなく、やはり氷河に生息しているトビムシやミジンコの餌でもあるのです。南米のパタゴニア氷原では、微生物を餌とするトビムシ、そしてそのトビムシを餌とする羽のないカワゲラなども見付けることができました。氷河にもこうした食物連鎖があったんです!
──氷河の世界で生態系の存在を証明されたとは、素晴らしい偉業を成し遂げられましたね。
ところで微生物や幼虫たちは、まさか成虫同様、氷上で生活しているわけではありませんよね?
幸島 氷河にある、小さな水たまりで生活しています。それはクリオコナイトホールといって、クリオコナイト粒が太陽光を吸収したためにできる円柱状の縦穴なんです。大きさは直径数センチから30センチ程度、深さも同様です。そここそが氷河生物にとって大変重要で、藻類や小動物たちの住処となっているのです。
実は、極地や高山のような寒冷な世界では、岩場や土の中よりも、雪や氷の中の方がよっぽど暖かく暮らしやすいのです。しかし、極寒で生物を調べようというほとんどの人が、肝心の雪や氷には目も向けません。だから、私が世界初の栄誉に輝けたわけです(笑)。
地球の将来をも脅かす氷河の生態系
──先生は、雪や氷の世界を舞台に数々の発見をされていらっしゃいます。最近では、こうした研究が地球環境問題にも影響する研究に発展したと伺いましたが。
幸島 雪氷のアルベド低下効果のことですね。
──何だか難しそうですが、一体どういう現象なんですか?
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夏のヤラ氷河。糸状藍藻が大増殖し、氷河の表面が真っ黒になってしまっている |
幸島 アルベドとは表面反射率のことです。実は、氷河の表面を藍藻類が覆ってしまうために色が黒くなり、このアルベドがどんどん低下しているということなんです。つまり、氷河の表面が熱を吸収することで、融解速度が3倍にも加速されてしまうんです。
──氷河を溶かしてしまうということは、海面上昇などの原因にもなりますね。
幸島 ええ。地球規模の環境変動にも関わってくるというわけです。最近、グリーンランドなどで氷河が溶け、小さくなっていると話題を集めていますが、こうした生物学的なプロセスも大きな原因となっており、決して無視できないと考えています。先日もブータンに調査に行ってきたのですが、やはりそこで見た氷河も真っ黒いものでした。
──氷河に生息する生物たちが、地球規模の環境変動にも関与しているだなんて…。
幸島 ですから、今後も氷河の生成の条件など、さらなる調査を進めていきたいと思っています。
──氷河の生態系の研究というのは、それ自体興味深いだけでなく、地球科学的にも非常に重要なのですね。氷河に住む昆虫探しが、ここまでスケールの大きな研究に発展しているのも、先生の自由で既成概念にとらわれない発想があってのことだと思います。我々の将来にも関わる重要なテーマですから、今後もますますご研究に励んでいただきたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。
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