こだわりアカデミー
里山で昆虫や小さな生き物に接してもらうことで、 子ども達の豊かな人間形成を育みたいんです。
こども電話相談室で数十年。
昆虫学者が語る子ども達への思い
ぐんま昆虫の森 園長
矢島 稔 氏
やじま みのる

1930年、東京生れ。57年、東京学芸大学生物学科卒業。中学生より昆虫の観察を開始し、49年日本昆虫学会等が主催するコンクールに入賞。57年、豊島園の昆虫生態館を創設し、主任に就任。61年東京都多摩動物公園に移り、「昆虫園」の設立に着手、64年、昆虫誌『月刊インセクタリウム』を創刊、87年に同園園長に就任、90年に退職後、東京動物園協会理事長などを歴任し、99年より現職。80年、日本博物館協会・棚橋賞受賞。著書に『樹液をめぐる昆虫たち』(偕成社)、『虫に出会えてよかった』(フレーベル館)、『謎とき昆虫ノート』(NHKライブラリー)、『世界びっくり昆虫大集合』(成美堂出版)、『蝶を育てるアリ―わが昆虫フィールドノート』(文藝春秋)、『チョウとガのふしぎな世界』(偕成社)など多数。
2007年9月号掲載
少年期の療養生活が 昆虫にのめり込むきっかけに
──先生は昆虫生態学の大家でいらっしゃり、多摩動物公園園長などを歴任されたほか、「全国こども電話相談室」(JRN系列)や「夏休み子供科学電話相談」(NHK)の名回答者としてもおなじみですね。
限られた時間の中で、子どもを相手に、難しい内容を分りやすく噛み砕いて、的確な回答をされている様子には、いつも感銘を受けております。
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矢島 ありがとうございます。
子どもは、実に面白くて、そして難しい質問をずばっと聞いてくるもので…、当初は冷や汗が止まりませんでした(笑)。しかし、この30年、いろいろな質問を子ども達から受けたことで、大人が何ら不思議に思わなかった物事の真理のようなものに気付かされたことが多々あるんです。
──確かに。子どもは本当に面白く、そして、怖いですね(笑)。
ところで先生も、子ども時代は昆虫少年だったんですか?
矢島 もともと生き物が大好きだったのですが、あいにく私が幼少の頃は第二次世界大戦前後で、虫を追い掛けて野山を駆け巡れるような雰囲気はありませんでした。そのため、虫や魚など、生き物への思いを押し殺しながら、体調が悪いながらも生れ育った東京で勤労奉仕をしていました。
──ほとんどの子どもが疎開していた中、東京にお残りに…。
矢島 ええ。空襲が相次ぎ、人間の命がいとも容易く失われるという光景を目の当りにしました。しかし、そんな惨状とはまるで関係ないように、トンボは焼け跡にできた水溜りで産卵をしている…。あの姿は、今でもトラウマのように覚えています。
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──強烈な原風景ですね。その後は?
矢島 戦後、学校のみんなで焼け跡の整理などをしていました。しかし、「肺門リンパ腺炎」という病気を患っていることが判明し、親戚の別荘での療養生活に入ったのです。
伯父が気を遣ってくれて、釣りやイナゴ採りに連れて行ってくれたのですが、生き物に触れられたことが本当に嬉しかった。
結局、復学には2年間を要しましたが、この間に読んだ『ファーブル昆虫記』にとても感動しました。
──ファーブルの昆虫記は昆虫の詳しい紹介だけでなく、社会問題にも触れている、大変面白い本ですね。その頃から昆虫の観察を開始されたんですか?
矢島 はい、戦争で好きなように生き物に接することができなかった分、堰を切ったように観察にのめり込みました。自分でも昆虫記をと、『ファーブル昆虫記』を手本に、つくったこともあります。表紙や扉、目次なども作成、執筆したんですよ。
──確か、そのお手製の昆虫記、先生の書籍で拝見しました。装飾も体裁も美しくて…。それにしても、惨状を目の当りにされた先生にとって、昆虫が育つ姿は美しかったでしょうね。
矢島 蛹から出たばかりの、まだ翅が伸びつつあるアゲハを見た時は、なんて美しいのだろう、こういう昆虫を調べて一生を送りたい、と強く感動したのを今でもはっきりと覚えています。
※矢島 稔先生は、2022年4月26日にご永眠されました。生前のご厚意に感謝するとともに、慎んでご冥福をお祈り申し上げます(編集部)
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