こだわりアカデミー
どんなに医学が進歩しても 人々の病気を恐れる気持ちに変りはありません。
迷信から科学へ -病気でみる日本史-
医学博士 順天堂大学客員教授
酒井 シヅ 氏
さかい しづ

1935年、静岡県生れ。60年、三重県立大学医学部卒業、67年、東京大学大学院医学研究科修了。順天堂大学医学部講師、教授を経て、現職。野間科学医学資料館常任理事、日本医史学会常任理事。医学博士。著書に『日本の医療史』(82年、東京書籍)、『新装版解体新書』(98年、講談社学術文庫)、『病が語る日本史』(2002年、講談社)、編著に『疫病の時代』(99年、大修館書店)など多数。
2002年12月号掲載
医史学の魅力に取り付かれ、解剖学から転向
──ところで、そもそも先生が医史学のご研究を始められたきっかけは何だったのですか? こういっては何ですが、先生が学生でいらした頃は、女性で医学を志す方は珍しかったのでは…?
酒井 そうですね。私が医学部の学生だった頃は、40人のクラスで女性は4人だけでした。
──もともとはお医者さんになろうと?
酒井 ええ。母方の親戚に医者が多かったので、医者になじみがあったということと、たまたま実家から通える大学に医学部があったので、じゃあ医者になろうかな、と(笑)。三重で大学を出た後上京して、東大の大学院で解剖学を学びました。
──解剖学ですか?
酒井 人間の体について、もう一度基礎からきちんと学びたいと思ったんです。
──それがどうして医史学に?
酒井 解剖学では「脳の解剖」を専攻していたのですが、脳の中はミクロの世界。どんどん小さいところへ入り込んで、周りが見えなくなってしまったんです。新しく自分で何かを開発するという仕事でもなく、一種のむなしさも感じていました。そんな時に、後に順天堂大学医史学研究室の初代教授になられる小川鼎三先生に巡り合って、「医学の歴史は面白いよ」と勧められたんです。脳の世界と違って、歴史は知れば知るほどフィールドが広がっていきますし、過去を知ることで現在・未来が見えます。最初は、数年したら解剖学に戻ろうと思っていたのですが、そういう魅力にとりつかれてしまって、この世界にどっぷりはまってしまったというわけです(笑)。
──それで医史学研究室の2代目教授になられたのですね。この医史学研究室は、日本の医科大学では順天堂大学だけにしかないと伺いましたが…。
酒井 日本で一番古い私立病院だということで開設されたのですが、そもそもは、その生い立ちにも理由があると思います。
──とおっしゃいますと?
酒井 順天堂大学は、もともと千葉県佐倉にあった蘭学塾が始まりで、基礎を固めたのは佐藤尚中という人です。彼は、政府の意向を受け全国から300名の学生を集めて西洋医学の普及指導を行なっていたのですが、ある時、政府が連れてきたドイツ人医師が「尚中のやり方はナンセンスだ!」といって、授業をやめさせてしまったんです。
──彼はどういう指導をしていたのですか?
酒井 まず、学生を一同に集めて、ドイツ語の本を読ませました。ゼロからのスタートですから、本を読むことも大事なことです。
──しかし、ドイツ人から見ると、相当遅れていたのですね。
酒井 それでそのドイツ人医師は、300人の中から50人を選んで新しい学校を始めてしまったんです。
──では、残された250名の学生は?
酒井 尚中が引き取ったんです。借金をして新しい医学校と病院を作り、学生に医学を教え、患者の治療を行ないました。
──その精神が、医史学研究室につながり、今の順天堂に生きているのですね。
酒井 順天堂の語り部として、この精神を生徒に受け継いでいくのも、私の務めだと思っています(笑)。
──実は、私も以前こちらの医院にお世話になったことがあるのですが、お医者さんを始め、スタッフの方の対応が素晴らしかったのに感動した経験があります。その裏には、先生の存在があったのですね!
酒井 そういっていただけると、うれしいです(笑)。
──今後の研究のテーマは?
酒井 テーマは無限にあります。医史学を地球に例えると、日本列島の九州ぐらいの範囲しかまだ分っていませんから。まだまだ学ばなくてはいけないことだらけです。
──今後も、医学を志す学生達のために、そしてまた、巡り巡っては私達、患者やその家族のためにも、頑張っていただきたいと思います。
本日はありがとうございました。
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『病が語る日本史』(講談社) |
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