こだわりアカデミー
イギリスの近代都市づくりを進めたのは 実はコレラだったのです。
誤解が生んだ「近代化」−コレラとイギリスの奇妙な関係−
歴史学者 中央大学文学部教授
見市 雅俊 氏
みいち まさとし

1946年、東京都生れ。70年東京教育大学文学部卒業。74年一橋大学社会学研究科博士課程中退。京都大学人文科学研究所助手、和歌山大学経済学部助教授を経て、現在、中央大学文学部教授。著書に『コレラの世界史』(94年、晶文社)、『ロンドン─炎が生んだ世界都市』(99年、講談社)、共著に『路地裏の大英帝国』(82年、平凡社)、『青い恐怖・白い街』(90年、平凡社)『記憶のかたち』(99年、柏書房)、『疾病・開発・帝国医療』(近刊、東大出版会)、共訳に『ダウニング街日記』(90年、平凡社)。
2001年8月号掲載
「青い恐怖」の上陸にイギリスは大パニック
──ご著書『コレラの世界史』を、大変興味深く読ませていただきました。コレラを通して、19世紀のイギリスの歴史を見るという発想もさることながら、一つひとつの事柄が実に詳細に書かれていることに大変驚きました。
まず、どういうきっかけで、「コレラ」という一風変わったテーマに目を付けられたのですか。
見市 実は、19世紀を中心としたイギリス史全体を研究したいと考えていた時に、たまたま「コレラ」というテーマに出くわした、というのが正直なところです。イギリスでは、1831年から4回ほどコレラが流行しているのですが、このコレラの流行がイギリス史に相当重要な影響を及ぼしていることが分かり、これはラッキーなテーマだ、と思って本格的に研究を始めたんです(笑)。
──なるほど。それにしても、コレラの上陸が近いと分かった当時、イギリス国民は相当混乱したようですね。
見市 ええ。すでにコレラに冒された大陸諸国から、相当誇張された情報が伝わっていたようで、当時の医学誌によると「イギリスは完全なパニック状態に陥った」ということです。
──聞くところによると、コレラは別名「青い恐怖」と呼ばれるほど全身が真っ青になって、死亡率も高かったとか…。
見市 確かに、激しい下痢によって極度の脱水症状に陥り、そのような特異な変化を見せた人もいたようです。
感染者の2人に1人が死亡するという致死率の高さも、人々の恐怖を募らせたのでしょう。
イギリス政府は、この恐ろしい疫病を何としてでも上陸させまいと、いろいろと対策を練りました。その一つが、14日間にわたる検疫でした。
──外国から流入してくる人や物を一定期間隔離したわけですね。効果はあったんですか?
見市 「保菌者」の発見・隔離という意味では効果はあったのですが、そもそも物がこの病気を運ばないことや、体内潜伏期間が14日を越えない(※)ことは政府も知っており、いってみればあまり意味のない対策でした。それでも実施したのは、検疫を主張したのが、エリート医師達で構成された機関だったので、政府としても無視するわけにいかなかったようです。
しかし残念なことに、1831年、ついにコレラはイギリスに上陸してしまいました。
(※)潜伏期間は通常、数時間〜5日。
阿片、水銀、瀉血...驚くべき治療法
──当時の治療方法は、阿片や水銀を大量に投与したり、静脈を切断する「瀉血」をしたりと、現代では考えられない方法が採られていますね。特に瀉血は、採血量なんてまったく気にされていない…。考えただけでもぞっとします。
見市 コレラの侵入以前から、西洋医学の世界では、薬であれば大量投与、瀉血であれば大量に血を抜くという傾向が顕著でした。医学史でいう「英雄的治療法」の時代です。コレラの流行は医学界においても非常事態と考えられたために、この傾向に一層拍車が掛けられたのです。
この他にもいろいろな治療方法が編み出され、お陰で病院に入院する人もいなくなったそうです。
──ということは、かなり効果があったと…?
見市 いいえ。効果のある無しに関係なく、患者が病院に行きたがらなかったんです。病院に行けば、「コレラという新しい病気を研究したい」と目を輝かせている医師達のおもちゃにされると思ったのでしょう。せっかく政府が用意したコレラ専門病院も、開店休業状態だったようです。
──その気持ちはとてもよくわかる気がします(笑)。
コレラ=不道徳?! 誤解が生んだ近代化
──イギリスの衛生改革や近代都市づくりが、実はコレラをきっかけとして行なわれていったということですが…。
見市 面白いのは、まるで見当はずれな論理や観点から、意外にもそれらが正しい方向に進んでいった、という点です。その一番のポイントは、コレラが不道徳な病気だと認識されたことでしょう。
──なぜそのように解釈されたのですか?
見市 コレラ患者が老人や虚弱者、酒飲みといった貧困層に偏っていたためです。彼らは道徳的に劣っていると考えられていたので、「コレラ=不道徳」という方程式ができた。そこから、この“不道徳な病気”を退治するには、“不道徳な人間”の生活環境を道徳的に向上させなければいけない、という発想が生まれ、衛生改革が行なわれた。さらに、その過程でいろいろな誤解や社会的状況が絡まって、都市整備が進められていったのです。
──それだけ道徳が重要視された時代だったんですね。具体的に、どのように進められていったのですか?
見市 最初は、割と簡単なものからスタートしました。市民が住居内で飼っていた豚やその糞などを除去したり、空気を浄化するために木を燃やしたり、と…。
──コレラは空気によっても感染するんですか?
見市 いいえ。実際は水や食べ物からです。しかし、当時はまだ感染ルートが特定されていませんでしたから、空気の浄化も効果があると信じられていたんです。それに、都市の行政管理という点からみれば、大変意味のある行為だったと思います。
コレラの感染ルートは水だと、いち早く指摘したのは、ジョン・スノウという医師でした。彼はスコットランドのコレラ被害が重度だったのは、スコットランド人が愛飲するウィスキーと一緒に飲む“水”が要因であると指摘したのです。
──変った視点ですね。
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スコットランドのウィスキー専門店。現在も愛飲家は多い |
見市 実は、スノウはもともと筋金入りの禁酒運動家だった、というのがミソです。「水によってコレラが感染する」説は、禁酒運動家にとって愛飲家を攻撃するための格好の材料となったんです。
──つまり、スノウはコレラを退治しようとしたわけでなく、自分に有利だからという理由で「水感染説」を唱えた…。
見市 目的はどうであれ、結果的には大正解、というわけです(笑)。
しかし一方、ロンドンでは水源であるテムズ川に下水やゴミがそのまま捨てられていて、とても飲めた状態ではなかったのです。そのため、市民は水の代りにビールをよく飲んでいました。その方がコレラにかからないという報告もされたため、禁酒運動家による「酒=コレラ」という説は説得力を欠いていったのです。
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『「怪物スープ」の正体はこれだ!』(ウィリアム・ヒース画、1828年)。 「怪物スープ」とは、当時汚染のひどかったテムズ川の水のこと (「LONDON-WORLD CITY 1800−1840」) |
──この「水か酒か」、「病気か道徳か」という問題はどうやって解決されたのですか?
見市 ちょうどこの時代に紅茶が大衆化しますが、それが病原菌まじりの生水の代用品となり、いうなれば、コレラに対する「予防薬」となりました。おまけに、飲酒癖から抜け出す道徳的な飲み物としても認知されたのです。そして同時に、衛生改革の柱として上下水道も整備されていき、テムズ川もきれいになったというわけです。
──すべては結果オーライ、という感じですね。
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『水道本管工事 トトナム・コート道路で』(ジョージ・シャーフ画、1834年)。 水道の普及も「道徳の向上」として考えられた (「LONDON-WORLD CITY 1800−1840」より) |
視点を変えて、歴史を見る!
──それにしても、『コレラの世界史』は、当時の出来事や情勢などがとてもリアルに書かれていますね。まるでテレビのニュースを視ているようです。
見市 当時の新聞や雑誌を片っ端から調べて、一つひとつすり合わせながらまとめていきました。
──それは大変な作業でしたね。
見市 医学史に関しては、専門知識があったわけではありませんから、2、3ページを書くのに1年かかった箇所もあります。
でも、この時代のイギリスは、苦労してでも研究する楽しみがあるんですよ。近代化の先進国として名高い国ですが、当時の人々は、近代社会をつくりたくてつくったのではなく、都市の過密化など、それまで無かった問題が出てきて、取り組まざるを得ない状況に追い込まれた。ですから、人々は大いに試行錯誤し、大胆な発想をしています。実に魅力溢れる時代です。
──今後は、どのような切り口でご研究をされる予定ですか?
見市 地震という視点から、イギリス史を見ていこうと考えています。イギリスでは、1580年と1692年に「グレートアースクエイク」、つまり「大地震」が発生しているのですが、2回合わせての死亡者はたったの2人なんです。もっとも、規模も震度1−2だったようですが…。
──それがなぜ、「グレートアースクエイク」といわれているのですか?
見市 聖書に書かれている「終末」思想によるもの、という解釈が一般的には多いですね。どちらも世紀末近くに起こったために、人々が過敏に反応した、というわけです。
しかし、私はそれだけではないと考えています。
──といいますと?
見市 当時は、科学が発達してきて、「聖書」の一言では説明できないようなことが出てきた時代でした。ずっと変わらなかった自然との関係や、生活そのものが少しずつ、しかし確実に変化してきた。人々はその変化を肌で感じ、不安を感じながらも個人個人が突破口を見付けようと模索していた…。そんな社会状況も関係があると思うのです。
いってみれば、「宗教と科学が独特な形で共存している時代」です。そこを、地震という切り口で、なおかつ終末論と結び付けないで説明したいと考えています。
──先生のお話を伺って、歴史を通史的に捉えるのではなく、切り口を変えて捉えることで、それまで見えなかった事柄が見えてくるものだと実感しました。地震によるイギリス史のご研究も、楽しみにしております。
本日はありがとうございました。
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『コレラの世界史』(晶文社) |
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