こだわりアカデミー
全力を出し切ったつもりでも 実は生理的限界の8割くらいなんです。
トレーニングの心理学
中京大学体育学部教授・教育学博士
猪俣 公宏 氏
いのまた きみひろ

1943年神奈川県生れ。69年に東京教育大学大学院修士課程修了。その後渡米しフロリダ州立大学大学院博士課程を修了する。81年に名古屋大学助教授、84年上越教育大学助教授を経て、今年4月より、中京大学体育学部教授となる。教育学博士。また日本体育協会スポーツ科学専門委員、日本スポーツ心理学会理事、JOC(日本オリンピック委員会)スポーツカウンセラー、日本陸連強化本部科学委員、アジアスポーツ心理学会理事を兼任する。著書に『スポーツトレーニングの心理学』、『メンタルトレーニング』などがある。
1992年12月号掲載
スポーツを習慣づけると積極的な性格になる
──先生のご専門の「スポーツ心理学」とは、どういう分野なのでしょうか。
猪俣 言葉どおり、スポーツと人間の心との関わりを研究する分野です。テーマは大きく分けて2つあります。一つは、スポーツをすることが人間の心にどういう影響を及ぼすのか、もう一つは、スポーツをする上で、どういう心の関わり方をすれば能力をフルに発揮できるかということです。
──「スポーツが心に影響する」というのはどういうことですか。
猪俣 一般的には、スポーツは健康を維持するのが目的と言われますね。それは主に肉体、すなわちハード部分の健康を指すわけです。しかし、誰でも経験があると思いますが、スポーツをして汗をかくと非常に気持ちがいいとか、スカッとするとか、心地よい疲労感や充実感を感じるものです。スポーツは身体だけでなく心の健康にも影響しているのです。例えば、ジョギングなどの運動を一定期間続ける、もしくは習慣づけることで、自己イメージがポジティブになる、というデータが出ています。専門的に申しますと「自己有能感」と呼んでいますが、自分の能力に対して非常に自信がついていく、という面があるのです。
──なるほど。そういえばスポーツ選手には快活で前向きな性格の人が多いような気がします。
猪俣 選手ばかりではなく、われわれのような一般人がスポーツをする場合にも当てはまるんですよ。習慣的に運動していますと、男性ホルモンの分泌が比較的多くなるんです。男性ホルモンというのはどちらかというと、行動面で積極的な方向に作用するので、そうなるのではないかと言われています。
「動く」ことで高まる知的能力
──スポーツの効果としては、ストレス解消もあげられますね。
猪俣 ええ、そうです。また、人間の知的な活動にとっても適度な運動はプラスになります。運動することによって、大脳の覚醒レベル、すなわち興奮水準というか働きのレベルが良くなるとも言われています。
──大脳そのもののいわゆるディスクの回転が良くなるということですね。
猪俣 そうです。アリストテレスは歩きながら考えたと言われますが、実験的にもある程度の身体活動は、記憶力を促進したり、計算能力を高めたりするということが報告されています。
──ちょっと運動することで知的能力がアップするということであれば、毎日継続してやっている場合はどうなんでしょう。
猪俣 習慣化しているほうが効果が出ると言えますね。
──例えばどんな運動がいいんでしょうか。
猪俣 基本的には全身の運動ですね。ジョギングとか歩くとか・・・。
──やはり人間は心身両面の健康維持のためにも、多少のスポーツをするほうがいいということですね。
猪俣 ええ。人間は「ムーブメント」すなわち「動く」ことで生活の適応条件を満たすという面があるんです。極端な例ですが、あらゆる刺激を一切遮断して動かないでいると幻覚症状が出てきたりする、という実験結果もあります。人間の生存にとって動くことがいかに大切か、いかに刺激を自分で作り出さなければいけないか、ということの一つのあらわれです。
状況をうまくエネルギーに換えることができた岩崎選手
──もう一つのテーマ、スポーツをする上で、能力をフルに発揮するための心の持ち方について伺いたいんですが・・・。
猪俣 例えば、親指の内側に「母指内転筋」というのがありまして、ここに電流を通すと筋肉が収縮し親指が内転するんです。その時の力と、自分で思い切って力を入れた時の筋肉の収縮とでは、どちらが強い力が出ると思いますか。
──やはり電気の方でしょうか。
猪俣 そうなんです。われわれが「全力で力を出す」というのは、実は身体のリミテーション(限界)の6−7割なんです。かなりトレーニングした選手でも8割くらいだと言われています。身体のリミテーションは「生理的な限界」ということになりますが、その下に「心理的な限界」というのがありまして、これがいわゆる競技成績になります。よく「火事場の馬鹿力」といいますが、それは、異常な状況の中で心理的な限界が生理的な限界に近付いた現象なんです。
──簡単に言えば、スポーツの記録はあと2割くらい伸びてもおかしくないということですね。
猪俣 そういう可能性があります。実は、今回のバルセロナオリンピックで、各選手に配布したパンフレットの中に、このことも心理的なアドバイスとして記述しておいたんです。「あなたがたはまだ可能性を持っている。今まで自分の限界を出し切ってきたように思っているかも知れないが、まだ(生理的には)それだけの余裕があるんだ。大いに挑戦すべきだ」と。
──効果の方はいかがでしたか。
猪俣 水泳で岩崎選手が金メダルを取りましたが、それはそういう一つの現象を表していると思うんです。もちろん、技術的な面もあると思いますが、オリンピックという場面で、ああいう記録を出せたというのは、おそらく心理的な限界が生理的な限界にポッと近づいた、つまり「掻き」とか「蹴り」などの力の条件が一種の限界を超えた、ということのあらわれと見ています。
──なるほど。大成功例ですね。
猪俣 ええ。状況をうまくエネルギーに換えることができた例ですね。逆に自己防衛的になってそれがプレッシャーになってしまったり、マイナス効果に働いてしまいつぶれてしまったケースも実際ありました。
どんな状況もポジティブにとらえるトレーニングを
──スポーツだけではなく、大勢の人の前でスピーチをしなくてはならない場合なども、いくら練習をしても「いざ本番」となると、緊張や不安でドキドキしてうまくいかない、ということがよくあります。ましてやオリンピックなどというひのき舞台ともなると、応援団はいるわ、世界中の人がテレビで見ているわけで、ものすごいプレッシャーなわけですよね。
猪俣 そのとおり。私も前回のソウルと今回のバルセロナにまいりましたが、ものすごい大観衆です。そういう中で競技をする場合「こんな大勢の人の前で失敗したらどうしよう」という不安を持ちますと、どんどんマイナス方向に行ってしまう。ところが、その状況を、例えば「こんなに多くの人が自分を応援してくれている。こんなところで競技ができるなんて非常に幸福なことだ、うれしいことだ」というようなとり方をすれば、逆にポジティブになります。あるいは「心臓がドキドキしてきた。これはちょっと緊張し過ぎてまずいな」と思いますと、それがどんどん不安に結び付いて、その不安がまた緊張を増大させてマイナスの作用として出てきます。しかし、緊張というのは必ずしもマイナスではないわけで、これを「よし、準備状態がうまくできた。これはいけるぞ」というとらえ方をしていけばポジティブな方向にいけるわけです。自分のおかれている現状をポジティブに見るかネガティブに見るかで、全然結果が違ってくるといえますね。
──どういうふうにしたらポジティブにとらえられるんでしょう。
猪俣 やはりトレーニングですね。日頃の練習の中での失敗や成功を記録し、こうしたらうまくいったとか、こういう悪い状況もこう考えたらよい結果が出た、とかいろいろな現象をポジティブに解釈できるような構えをつくっていくことが大事です。
──スポーツは若干興奮していた方が、いい記録が出るようですね。
猪俣 ええ。適度な興奮状態が必要です。競技の種目によっても違いますけどね。射撃とかゴルフのように正確性や微妙なコントロールが必要な種目は、できるだけ興奮水準を下げなければいけません。
──自分で自分の心理状態をコントロールするのは難しいですね。何かいい手段はありますか。
猪俣 どちらかというと、リラックスする方、興奮を下げる方が易しいんです。例えばよく使われているのが腹式呼吸法。また、普段から自分が非常にリラックスできる風景とか人、音楽などのレパートリーをつくっておいて、それをイメージするというやり方もあります。身体をリラックスさせる場合には、筋弛緩法といいまして、一度グッと力を入れてから脱力するというやり方もあります。このような方法をいくつか組み合わせるのが普通ですね。
──逆に気分をハイな状態に持っていくのは難しいんですか。
猪俣 ええ。個人差もありますけどね。先程と逆で、気分をハイにする音楽を聞いたりイメージしたりする人もいます。また、観衆に拍手を求めて自分の興奮を高めていく人もいますね。
──そういうコントロールがうまくなっていけば、まだまだ記録は伸びていきそうですね。
猪俣 そうですね。生理的な面や、技術面での科学的な研究はもちろん、最後のファクターである心理面での科学的な研究がもっと進んでいけば、さらに可能性はあります。
──まだ歴史の浅い分野と伺っていますが、大いに期待しておりますのでぜひ頑張ってください。本日はありがとうございました。
2001年4月1日より02年4月1日まで、ドイツケルン体育大学の客員教授に。また近著に『メンタルマネジメントマニュアル』(大修館書店)がある。
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