こだわりアカデミー
縄文人はイヌをとても大切にしたのですが 弥生人は食料にしていたんです。
縄文人の食生活
動物考古学者 国立歴史民俗博物館考古研究部助教授
西本 豊弘 氏
にしもと とよひろ

1947年、大阪市生れ。71年早稲田大学教育学部卒業。81年北海道大学大学院博士課程単位取得退学、同年、札幌医科大学第2解剖学講座助手となる。85年より現職。大学3年生の時に中国古代史から動物考古学を研究するようになり、数々の遺跡の発掘調査に携わる。執筆は論文が主だが、共著として「考古学は愉しい」(藤本強編、94年、日本経済新聞社)がある。
1995年6月号掲載
動物を通して古代の人々の生活を知る
──先生の専門分野である「動物考古学」とは普段耳慣れない言葉なんですが、一体どのようなことを研究されているのでしょうか。
西本 言葉だけ聞くと動物の古い時代のことを調べるように思われるかもしれませんが、それは古生物学です。そうではなくて、動物考古学はやはり人間が主体です。
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同博物館の資料室にて。普段、一般の人が入れない博物館の裏側も見せていただいた |
遺跡からは土器などの他にも動物の骨が出土します。 それを分類、調査することによって、その当時の人間が動物をどういうふうに見ていたか、どう扱い、付き合ってきたか、というのを研究するんです。例えば一年の中で、いつ頃、どのような動物を捕獲しているかを調べて、その時代の狩猟シーズンを推定することもできます。
また家畜については、その骨の形質を調べることによって、新種の出現や改良の状況が明らかになります。
──動物を通して、われわれの先祖の暮しぶりが分かるわけですね。
西本 ええ。縄文時代の狩猟、漁撈、採取を基本とする社会が約1万年続いた後、稲作農耕が主流となる弥生時代に移り変るわけですから、生活も変り、また動物観にも大きな変化をもたらしたはずです。
例えばイヌを見ていくことで、歴史の中での日本人の動きを探ることができます。
新しいイヌが出てくる時は、外国人との交流が活発な時代
──イヌは人間にとって一番身近な動物ですね。
西本 日本では紀元前7000年から8000年くらいのイヌの骨が、愛媛と神奈川の遺跡で見つかっていますから、縄文時代の当初から日本にいたことは明らかです。そして、彼らはイヌをとても大事にしたんです。
──それはどういったことから分かるのですか。
西本 当時のイヌの大部分は人間と同じように埋葬されていました。稀に解体した痕のある骨が見つかることがありますが、それらは食料とされたということも推測されます。しかし基本的には食料とされずに、狩猟犬として扱われていたようです。その中には狩猟中に怪我をするものも多くいたようで、背骨が折れて助骨と癒着していたり、前足が1本折れていたのもある。骨折が治癒したイヌも多く見られます。どうやら狩猟犬として役に立たなくなっても大切に飼育されていたようです。
──今のわれわれがイヌをかわいがる感じに非常に近いですね。
西本 しかし弥生時代になると扱いはガラリと変ります。まず、ほとんど埋葬されなくなる。骨もバラバラの状態で出土し、解体痕があります。ですから、狩猟犬としてより食料とされていたのでしょう。それにイヌの種類も変ります。
──扱いも種類も変ってしまうとはどういうことでしょう。
西本 縄文犬は体高40cmくらいの小型犬で、顔立ちも前頭部にくぼみがないためキツネのような顔立ちです。また四肢が太く、短く、たくましい感じです。よく、オオカミが家畜化したものと思われがちですが、大きさも骨の形態も違うので、縄文犬は当初から"イヌ"でした。
一方、弥生犬は前頭部にくぼみを持ち、頬骨が張り出している。これは、狩猟から農耕へと社会が変っていったための「変化」というよりは、朝鮮半島からの渡来人に連れられて日本にやってきた、と考えた方が自然でしょう。おそらく彼らはイヌを食べるためにブタ等と一緒に連れてきたんでしょうね。
イヌを食べる習慣は稲作と同様、この時持ち込まれたんです。そしてこの時期のイヌがその後の日本犬の基礎になったと思われます。
──では縄文犬はどうなったんですか。
西本 次第に弥生犬と同化していって消滅したのではないかと考えています。
その後の歴史を見ても、新しいタイプのイヌが出てくる時は、外国人との交流が活発に行われていた時代といっていいでしょう。
縄文時代の食生活は安定していた
──新しい人間が入ってきて、農耕の技術だけでなく、イヌを食べる習慣まで持ってきたわけだから、食生活もかなりの変化ですよね。一体縄文人は主にどんなものを食べていたんですか。
西本 実は、現在私が研究主体としているのは、その食べ物についてなんです。
縄文時代は、シカ、イノシシ等を食べていた。ただ、そうしょっちゅう食べていたわけでもなく、せいぜい1年に一家族で1頭から2頭くらいだったのではないかと思われます。それ以外は植物質食料が大部分でしょうね。
──例えば木の実とか・・・。
西本 ドングリとかイモの種。青森の三内丸山遺跡ではイヌビエが出ています。植物質食料が主体ですから、ドングリのアク抜きなどの処理のために土器が必要です。
──土器は弥生時代と比べても多いんですか。
西本 嫌になるぐらい出てきますよ(笑)。それだけ植物をどんどん採取していたわけです。
何年か前ですが、学生たちと一緒に縄文時代の料理を作ってみたことがあるんです。
当時の料理というと、焚火の周りで何人かが骨付き肉を焼いているような光景を思い浮かべる方もいるかもしれませんが、実際遺跡から出る骨を調べると焼けているものはほとんどなく、また、骨は意図的に打ち砕かれたようになっている。それは骨髄を取るために割ったと考えられます。おそらく生のままか茹でて食べたんでしょうが、生のまま食べたとしても骨には肉片や軟骨などが残りますから、それを有効に利用するために、茹でて食べた可能性があります。また、骨髄は塩分、ビタミン・タンパク質・脂肪に富んでいますし、調味料の代わりにもなる。その汁にドングリで作った団子を入れたりしていただろうと思ったんです。
──一種の「鍋」ですね。
西本 その「縄文鍋」を作るために毛皮の付いたままのイノシシ一頭を手に入れて、縄文人が使っていたような石器のナイフで解体し、骨を割り骨髄も鍋に入れました。一緒にじゃがいも、ネギなどの野菜も加え、塩のみ少量加えました。色はビーフシチューに近く、意外に味がついていました。ただ、肉は野生味が強く学生たちにはあわなかったようでしたね。
またこの時にドングリを主体に、クッキーも作りました。ドングリは渋味のないマテバシイという種類を主体にしたので、砂糖を入れなくてもおいしかった。同じ材料を鍋に入れて団子を作ったのですが、火の通りが悪く、ドングリの味が強く残り、これは好評ではありませんでした。ただこの団子とクッキーは腹持ちが良かったですね。
──縄文人の食べ物は想像していたより多種多様だったんですね。
西本 そのために飢饉がないんです。季節によってあるものが採れなくても代替がききますから。そして居住地域周辺のあらゆる食料をすべて利用したでしょうし、貯蔵方法にも工夫をこらしていた。弥生時代と比べると低水準ではあるが安定していたんです。だから同質の文化を1万年も維持できたわけです。
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国立民俗博物館にて |
食料事情が変れば社会も文化も変る
西本 そして弥生時代に入り、稲作による食料生産で、主体となる食料ができ、供給が安定すると、人口も増えてきます。しかし、一旦人口が増えると今度は食料不足になる。それを克服しようと人々が努力すれば、おのずと文化も進歩します。
──縄文時代の安定した感じから、一変しますね。
西本 弥生時代では上下の関係もはっきりしてきますし、戦争も始まります。彼らの集落は環濠という堀を持ち、逆茂木を周りに立てて囲い、その中に100人、大規模なところは1000人ぐらい住んでいたと思われます。それが関東の方まで進出してくる。縄文人はどんどん圧迫されながら、次第に弥生人たちと同化し、彼らの文化が主流になってくるわけです。
──以前は弥生人の方が、縄文人より温厚的といった感じがしていたんですが、イヌを食べたり、戦争をしたり、恐いというか闘争的な面もあるような。
西本 縄文時代は、人間は他の動物同様、自然界の食物連鎖の一員として位置付けられていたと思います。それに対し弥生時代は動物のうち、イヌとブタを家畜とし、人間より下の存在としてはっきり区別していました。特にブタは農耕儀礼の際に犠牲獣として利用されたりしています。
こうして弥生時代は、外国から新たな価値観が入ってきたことで、生活の範囲が広がり、より複雑な社会になります。支配する者、される者。また水田を耕す者、祭事を行う者など。そういった階層化、職業の分化と知識の分散、専門家の誕生という要素がうまくかみあって、新しい文化が生れ、生活水準も向上していくんです。
──われわれの現代社会の基礎ができあがってきた時代という感じがします。
西本 現代はさらに専門化、分化が進み、自然に関する知識は縄文人と比べてはるかに少なく、失いつつあります。それは弥生時代以降の食料の均一化がもたらした弊害だと思うんです。われわれは、自然を破壊しながら生活し続けているわけですから。
──先生のご著書にもあるように、別の観点から見れば、この社会は「進歩」しているというよりは、「退歩」しているのかもしれない。
動物考古学からは、動物と人間との歴史的な関わりがいろいろと見えてきておもしろいですね。先生のさらなるご活躍を期待しております。ありがとうございました。
現在は同博物館同研究部の教授に
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