こだわりアカデミー
江戸時代、日本中を駆け巡った 傑作和船『弁才船(べざいせん)』
弁才船にみる日本独自の造船技術
東京大学大学院名誉教授
安達 裕之 氏
あだち ひろゆき

1947年生まれ。東京大学工学部船舶工学科卒業。専攻は日本造船史。99年〜2012年東京大学大学院教授、現在、東京大学大学院名誉教授。01年より日本海事史学会会長。主な著書に『日本の船〜和船編〜』(船の科学館)、『雛形からみた弁才船』(船の科学館)、『異様の船〜洋式船導入と鎖国体制〜』(平凡社)などがある。
2016年12月号掲載
1本マストの大きな帆が特長。経済性、スピードアップに貢献
──先生は日本の船(和船)の研究の第一人者だと伺っています。今、東京や大阪で水上バスや渡し船などの水上交通が見直され、船の良さが再認識されつつありますが、海に囲まれた島国であり川も多い日本では、明治維新までは船が人々の生活に欠かせないものだったのでしょうね。中でも、今日は、江戸時代に大活躍した「弁才船」という船についてお伺いしたいと思います。
安達 はい。明治時代に鉄道が登場し、道路が整備されるまでは、安価な重量物の輸送手段としては水運の効率が一番よく、船が交通や物資輸送の主軸でした。特に大都市が形成された江戸時代には、人の移動や物流が盛んとなり、それに伴い日本独自の造船技術が発達し、多くの船がつくられたのです。中でも今日、「千石船」と俗称される弁才船はその代表ともいえる船で、江戸時代の主力商船でした。
──なるほど。江戸時代の商船といえば「北前船(きたまえぶね)」や「菱垣廻船(ひがきかいせん)」、「樽廻船(たるかいせん)」といった船は知っていましたが、弁才船とは初めて聞きました。どのような船だったのでしょうか。
安達 弁才船は、16世紀ごろに誕生した瀬戸内海の荷船がベースとなっていることが分かっています。よりつくりやすく、より速く効率よく運ぶ工夫がなされていたため、江戸時代中期には、各地の種々雑多な商船は次第に弁才船に統一されていく一方で、さまざまな地方型や派生型が登場しました。例えば、北海道と大坂(大阪)を結んだ日本海の買積船として有名な「北前船」は地方型の代表格ですし、上方から江戸に日用雑貨を運んだ「菱垣廻船」や酒を運んだ「樽廻船」は派生型の代表格です。
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菱垣廻船(縮尺1/20)模型〈船の科学館所蔵〉 |
──そうだったのですね。では、弁才船の形や構造にはどのような特長があるのですか?
安達 技術の特徴としては、接(は)ぎ合わせです。長大で幅の広い部材は何枚もの板を接ぎ合わせてつくるので、船材の大きさに制約されず、大は2000石積から小は伝馬船まで、ほぼ同じ構造で建造できました。外観上の特徴は、やはり1本の帆柱に1枚の大きな帆を張ることです。弁才船は順風でしか走れないとよくいわれますが、同じ帆装形式の西欧船と比べて逆風帆走性能は優れており、しかも帆の操作は帆柱に登らず、船上で行えたので、長時間の逆風帆走にも耐えられました。風の良いときには帆走し、風の悪いときには櫓を漕ぐ「漕帆兼用船」から帆走をもっぱらとする「帆走専用船」に脱皮した弁才船は、漕櫓用の乗組員を不用にして経済性を高めたばかりでなく、帆走技術を向上させて航海の迅速化を図りました。
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樽詰めの酒を専門に運んだ樽廻船(縮尺1/5)模型。写真上左は船尾にある「かじ」。取り外しができるようになっていた。写真上右は船尾側から見たもの。写真下は船首方向から見た同船。なお、実船の同樽廻船は全長約32m、幅約11m、1,700石積で酒樽3,200樽を積載することができた〈船の科学館所蔵〉 |
──船がつくりやすく、人手が減ってコストダウンした上、スピードもアップ…。三拍子揃ったわけですね。日本人のモノづくり文化は本当にすばらしいですね。
縮尺模型や絵馬、事故記録…、 さまざまな資料で証拠固め
──ところで先生はどういうきっかけで和船の研究を?
安達 私は東京大学で船舶工学を学んだのですが、モノにも歴史にも興味があったので、結局、和船の歴史研究の道に進みました。研究をしていて分かったのは、世界のどの地域にも長い船の歴史があるにもかかわらず、歴史を明らかにできる地域は限られ、日本はその数少ない地域の一つであることです。残念ながら、江戸時代までの実船はほとんど現存していません。そのため研究は、考古資料・絵画史料・文献などさまざまな資料を駆使して進めていくしかありません。江戸時代には多くの資料が残されていますが、やはり実物がない中での研究は大変です。苦労が多い分、それだけ研究にはまってしまったと言えますが…。
──具体的にはどのような資料があるのですか?
安達 船の資料は、中世では主として絵巻物などの絵画資料ですが、近世には質量ともに飛躍的に増えます。船の各部の寸法や比率を表した木割書や寸法書、図面、10分の1の縮尺模型、建造記録といった造船関係の資料、海運関係の資料、船主や船乗りが海上安全を祈願して寺社に奉納した「船絵馬」がそうです。各地に多数残る海難証明書は航海の記録として役に立ちますし、どのようにして船が壊れていくかを知る手掛かりにもなります。それに大坂堂島の船大工金沢兼光の著した船の大百科全書『和漢船用集』や浦賀奉行所同心今西幸蔵の著した家と船に関する『今西氏家舶縄墨私記(いまにししかはくなわすみしき)』も研究には不可欠です。
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含粋亭芳豊(がんすいていよしとよ)作 『菱垣新綿番船川口出帆之図』 (ひがきしんめんばんせんかわぐちしゅっぱんのず) 大坂(大阪)周辺で秋にとれた新しい木綿を積み込んだ菱垣廻船によるスピード・レース(新綿番船)の情景を描いた3枚続きの錦絵。レースを見物する多数の屋形船や川岸の群衆のお祭り騒ぎを中央に、右上方にこれからレースに出る7隻の番船が描かれている。新綿番船は華々しい年中行事で、単なる競走にとどまらず、その年の新しい木綿の値段を決めるという重要な役割もあわせ持っていた〈船の科学館所蔵〉 |
──それらすべてを調べるのですか? 文書などは専門用語なども含まれており、非常に難解そうですが…。
安達 一見、難しそうですが、古文書の読み方を身につければ、造船史には先学の研究の蓄積もあり、それを梃子にしてコツコツとやるしかありません。ただ船はモノなので、古文書が読めても、直ちに造船史の研究ができるわけではありません。古文書を読み、模型や図面や絵を調べ、モノに対する勘を養う必要があります。さらに外国船も研究の対象です。朱印船は中国船の系統の船ですし、幕末には洋式船も導入されるので、日本に閉じこもるわけにはいきません。
──そうした地道で大変な作業のひとつひとつが、和船研究の歴史を作り上げてきたのですね。
視点を変えて、 和船の歴史を再検討
──今後のご研究は?
安達 今、これまでの研究を再検討しながら、和船の歴史を書いています。明治時代の国内海運の主役は在来形を基本とする和洋折衷船とされてきましたが、洋式船を基本とする和洋折衷船が存在し、しかも優勢であったことが判明したため、従来の枠組みの見直しを迫られています。
──なるほど。そうしてまた新たなことが明らかになれば、日本が誇る和船の歴史がさらに明らかになるというわけですね。そうなることを願っております。 本日は、どうもありがとうございました。
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