こだわりアカデミー
万葉の人々には、歌を神聖なものと考える気持ちと 言葉遊びを楽しむ気持ちがあったようです。
万葉の歌・現代の歌
早稲田大学政治経済学部教授 歌人
佐佐木 幸綱 氏
ささき ゆきつな

歌人、国文学者。1938年生れ。早稲田大学大学院国文科修士課程修了。大学在学中より「早稲田短歌」「心の花」(歌誌)に参加。跡見女子大学教授を経て、現在、早稲田大学政治経済学部教授。専攻は万葉学、近代短歌。「心の花」編集長。88年より朝日歌壇選者もつとめている。祖父は佐佐木信綱(歌人)。主な歌集=「群黎」(70年、青土社。第15会現代歌人協会賞受賞)、「直立せよ一行の歌」(72年、青土社)、「金色の獅子」(89年、雁書館。第5回詩歌文学館賞受賞)、「瀧の時間」(93年、ながらみ書房。第28回迢空賞受賞)。主な評論集=「萬葉へ」(75年、青土社)、「中世の歌人たち」(76年、日本放送出版協会)、「柿本人麻呂ノート」(82年、青土社)、「父へ贈る歌」(編著、95年、朝日新聞社)。現代歌人協会理事、日本文藝家協会会員。
1995年11月号掲載
歌の言葉には「言霊」という魂が宿っていた
──短歌というと、小さい頃に百人一首をやった覚えがある程度なので、お恥ずかしい限りです。好きな歌もいくつかあったんですが…。
先生は、歌人として自ら歌をお詠みになると同時に、万葉の時代の詩歌のご研究もされておられますが、万葉集だけでも4,500首余りの歌があるということですね。なぜそんなに多くの歌がつくられたのでしょうか。
佐佐木 当時、歌の中の言葉には、「言霊」と言って、魂が宿ると考えられていたんです。ですから、同じ言葉でも、日常の言葉とは価値というか重みが全然違う。神と対話するような歌もあったほどで、歌はある意味で神聖なものでもあったわけです。そういう意味で、昔の人々が、歌というものを非常に大事にしていたということがまず一つ言えると思います。
一方、そういう真面目な理由だけではなく、言葉を楽しむという娯楽的な面もあったのではないかと思います。たとえば夫婦のことを妹背などと言いますが、「妹山(いもやま)」「背山(せやま)」といった地名にかけて、楽しみながら歌をつくったりする。そういうふうな日常とは違った言葉の響きを楽しむというか、愛するような要素もあったんじゃないか…。そういう真面目な要素と楽しみの要素があって、あれだけ多くの人々に短歌が広まったのではないかと思います。
ちょっと余談ですが、私自身も子供の頃、親が百人一首をしているのをそばで見ていて「恋いすてふ」という蝶々とか、ゆらゆら揺れる塔「由良の門を」など、不思議なものがでてくるなぁと思いながらおもしろがって聞いていました(笑)。そういう意味で、言葉を楽しむ気持ちは現代のわれわれにも共通しているところがあるように思いますし、そういうところから歌に興味を持っていくような要素も確かにありますね。
火葬の始まりが死生観を変え万葉文化が花開いた
──それにしても、特に万葉の時代というのは、日本の歴史の中でも、何か突然パッと花が咲いたように歌の文化が隆盛したような気がするんです。何かきっかけのようなものがあったんでしょうか。
佐佐木 すでにお亡くなりになった有名な文芸評論家・山本健吉さんの論文に「詩の自覚の歴史」というのがあります。
それによると、万葉集始発の時代には「死」のとらえ方に関して一つの大きな変化があったということです。どういうことかというと、ちょうどこの頃から日本で火葬が行われるようになった。つまり、死者の埋葬が古墳から火葬へと変わっていった時代で、それに伴って人々の死や生に対する考え方も大きく変貌していったというわけです。
古墳時代には、この世とあの世が続いているという考え方でしたが、死者が焼かれるようになってからは、人間は一回限りの生で、死ねばもうそれで終わりだ。そして、この世に生まれてきた人間は皆、いつかは死んでいく、ということを強く意識するようになった。その意識の変化が、日本における詩や歌の誕生と大きく関わっているというのが山本説です。
──火葬によって、死というものがかなり現実的なものになったということでしょうか。人生の無常さとかはかなさみたいなものが、当時の人々が歌をつくる原動力になっていたのかも知れませんね。
佐佐木 それまでの生と死が連続している考え方から、はっきりした断絶を感じるようになった。その断絶感が詩歌をつくる情熱になり、また深みを与えていったんだと思います。
「一期一会」ということを茶道で言いますね。人と人との出会いや旅先での感動など、一回限りのものだから大事にしよう、という考え方で、これも、生きているのは常に無常、常なるものはない。すべてのものは過渡である。だから今の一瞬一瞬を大事にしよう、今を燃えよう、というところからきているわけです。現代でも、日本の詩の非常に重要な部分を支えていると思います。
識字率が高く、詠み手は農民から貴族まで広範囲
──聞くところによると、万葉集には北海道などの一部地域を除いて、ほぼ日本全国各地の歌があるそうですね。特に興味を覚えましたのは、約半分が詠み人不詳ということで、必ずしも身分の高い人ばかりが歌を詠んでいたわけではないということです。
例えば防人の詠んだ歌というのが数多く残されていますが、彼らは主に東国から連れて来られた農民だったと聞いています。当時の歌というのは全部漢字ですよね。彼らは歌を詠むことはできても、書き記すことはできたんでしょうか。
佐佐木 東歌などは、書き手は別にいたんだろうと思います。おそらく口から耳へと伝わったものを後で役人が書いたのではないでしょうか。
ただ、われわれが想像している以上に識字率は高かったのではないかと私は思っているんです。なぜなら、平城京跡や多賀城遺跡等からは何十万点という膨大な数の木簡や竹簡がでてきています。あれだけ出てくるということは、かなり下の位の役人まで字が書けたということが考えられるからです。農民でも、豪族層などは字が書けたのではないかと思います。全国レベルであれだけ多くの歌が残っているというのには、そうした識字率の高さも、ひとつの背景としてあったのではないかと私は考えています。
──いずれにせよ、あの当時の階級社会の中で、貴族から役人、大衆まで幅広い層の人たちが、同じ楽しみを共有していたというのは、すばらしいことですね。
佐佐木 それは現代にも言えることで、新聞の短歌欄、俳句欄には十代の学生から老人の方まで非常に幅広い年齢層の人たちが一生懸命投稿してくる…。こんな国は珍しいですね。
私も新聞の短歌欄を担当していますが、1週間に3,000通位は来ています。
歌を詠む気持ちは、カラオケと通じるものがある
──一千何百年も脈々と続いているわけだ。やれパソコンだ、バーチャル麻雀だとかいう時代に、それはどういうことなんでしょうか。
佐佐木 やはり自己表現したいという気持ちでしょうね。カラオケに似ているかもしれません。自分の言いたいことを五七五七七で言うと、それを選者が読んでくれる。さらに、それが選ばれて新聞に載ると、もっと大勢の人が読んでくれる。大新聞の短歌欄に載ると、幼友達とか、いろんな友人知人から電話がくると言いますから、そういううれしさもあるのではないでしょうか。
──しかし、言葉というものに対するとらえ方や歌をつくる心というものは、万葉の時代とは大きく異なっているんでしょうね。
佐佐木 非常に多様化していますね。例えば、高齢化社会の進む中で「老い」の問題を歌った作もありますし、「サラダ記念日」に代表されるような自己の青春性のアイデンティティ追求みたいなものもある。
──そういった中で、言葉を楽しむ、大事にするという点は、昔も今も基本的には共通していると思うんです。詩歌はもちろんのこと、落語なんかにしても、ほんとうに言葉がつくりだした芸術だと思います。そういうものがつくられ、また、さまざまな時代を経て今に受け継がれてきているというところに、日本人として、何か誇りのようなものを感じたりします。
今の若い人たちにしても、私なんかから見ると言葉が通じないようなところもありますが、たぶん、それなりに受け継いでいってくれるのではないかと…。
佐佐木 今の若者は言葉遊びが好きですからね。使ったことのない言葉を使ってみるとか、言ったことのない言い回しを言ってみるというような遊びができるんです。言葉遊びというのは心の冒険です。心の冒険ができる人は詩歌の世界も分かる人だと思いますから、これからはそういう若者がどんどん増えてくるんじゃないかと期待しています。
──人と人とのコミュニケーションが難しい時代になってきている部分もありますけれども、人間の本質は変わらずに、そういう若者がまたさらに詩歌みたいなものを育てていってくれると期待したいですね。
ところで、先生は歌人として、今どういうテーマに関心がおありですか。
佐佐木 〈父として幼き者は見上げ居り願わくは金色の獅子とうつれよ〉という短歌は私の作ですが、わりと評判になりました。「父の日」の新聞などによく引用されます。父権消滅、父親不在などと言われる中で、私はずっと「父と息子」というテーマで作品をつくってきました。これからも、このテーマは持続してゆくつもりです。
──仰ぎ見た存在であった父。そして今度は自らしゃきっと立つ強い父親でありたい…。
どうもありがとうございました。今後ともますますご活躍ください。
1998年、岩波書店より『万葉集を読む』発刊。『佐佐木幸綱の世界』(全17巻、河出書房)も刊行中。
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