こだわりアカデミー
人をリラックスさせたり、脳を活性化させる「におい」。 いつか、医療に利用できるようにしたいですね。
「におい」に着目した脳研究
杏林大学医学部教授
古賀 良彦 氏
こが よしひこ
1946年東京生れ。71年慶応義塾大学医学部卒業後、同大学医学部精神神経科学教室入室。76年杏林大学医学部精神神経科学教室に転じ、90年に同大学助教授、95年に教授となる。医学博士。著書に『事象関連電位マニュアル−P300を中心に』(95年、篠原出版・共著)、『花からのメッセージ−心とからだすこやかに』(95年、法研・共著)など。
1999年5月号掲載
「におい」は直接、心を揺さぶる
──最近、脳はさまざまな角度から研究がなされ、仕組みなどが解明されてきています。
先生は、『におい』という大変興味深い新しい切り口で、アプローチをされていらっしゃいますね。
古賀 はい。「人の心を生み出すのは脳である」という認識のもと、精神科医の立場で「心の健康」をテーマに、『におい』と脳、いわゆる心との関わりを研究しています。
──どういうところから『におい』と脳、心が結びついたんですか。
古賀 『におい』をとらえるのは嗅覚ですが、ご存じの通り、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感はすべて脳でコントロールされています。例えば視覚は、主に新皮質と呼ばれる脳の中でも比較的、後に発達した部位で支配されています。人間はこの部位が発達しており、まず「これは花だ」と視覚が識別し、その後「きれいな花だ」と情緒的な判断が行なわれるわけです。
一方、嗅覚は、主に大脳辺縁系という部位で支配されています。これらは下等動物ほど発達している原始的な感覚といわれています。同時に大脳辺縁系は、情緒や欲動、記憶をコントロールしているため、『におい』を嗅いだ瞬間「いいにおい」、「嫌なにおい」というように、すぐさま感情に結びつきます。
──なるほど、だから『におい』は心に大きな影響を与えるんですね。
桃の「におい」でイライラが解消!
──先生の『におい』の研究とは、具体的にどういうものですか。
古賀 主に、人にいろいろな『におい』を嗅がせて脳波を測定し、脳の働きを見る研究をしています。
ご存じの方も多いでしょうが、人がリラックスしている時の脳波にはα波が多く見られます。そのことから、ある『におい』を嗅がせてα波が増えれば、その『におい』はリラックスさせる効果があると分るわけです。
──例えばどういう『におい』が、心地よくさせるのでしょうか。
古賀 よく知られているものの中に、ラベンダーがあります。実験でラベンダーの『におい』を嗅がせてみると、ほとんどの人にα波の増加が認められました。この『におい』が好きな方には、非常にリラクゼーション効果があるといえます。
──気分を穏やかにしたい時や眠れない時に、ラベンダーの『におい』を嗅ぐと良いと聞きますが、これは科学的にも正しかったということですね。
古賀 そういうことになります。個人差はありますが、ジャスミンも同じ効果が認められました。
また最近、ある化粧品メーカーから桃の『におい』が、どのような影響を与えるか調べてくれという要請があり、PET(※)という装置で脳を流れる血液の量を測定する実験をしたところ、怒りを発現させる脳の扁桃体の血流量を減らして、イライラを抑えるという結果が得られたんです。
※PETによる実験は、秋田県立脳血管研究センターの協力によります。(戻る)
桃のにおいによる扁桃体の血流量の現象 無臭時と比較し、桃のにおいによって血流量の低下した部位を、黄色および赤色で示す。 写真左下部が扁桃体を含む辺縁系。 |
──『におい』は、リラックスと非常に関係深いんですね。
古賀 リラックス以外に、『におい』には脳を活発化させる働きがあることも分っています。
何らかの刺激が脳に入ってきた時、脳のシステムはその刺激ごとにさまざまな反応、機能を見せ、それぞれに応じた脳波が現れます。これを総称して「事象関連電位(じしょうかんれんでんい)」と呼びますが、その中に刺激後、約0.3秒で現れる「P300」という脳波があります。これは、すでに記憶している情報と、今脳に入ってきた情報が同じかどうか照合、判断する時などに出るんですが、この脳波の大きさが増すほど、脳が活発に活動していることを意味します。
実際、実験で『におい』を嗅ぎながら色や音の区別をさせたところ、本人が好きな『におい』だと、P300の大きさが増えたんです。
──自分の好きな『におい』を嗅いで仕事をすれば、効率が上がるということがいえますね。
古賀 そういう効果も期待できるでしょう。また最近、ウイスキーの『におい』を使って脳の血流量を測る実験で、面白い結果を得ました。人にウイスキーのにおいを嗅がせたら、情緒感情と関係のある脳の右半球、特に快感をコントロールする中枢の部位の血流量が増え、中でもウイスキー好きな人はより効果が見られました。流れる血が増えるというのは、その部位の働きが活発化していることを示しますので、ウイスキーの『におい』が心地よさを与えていることを意味しているのです。
──それは、アルコールが作用しているわけではないのですか。
古賀 アルコールだけでも実験しましたが、断然ウイスキーの方が血流量が増えており、熟成したウイスキーの『におい』がもたらしていることは明白です。
脳の各部位における血流量のにおい試料間の比較 脳の右側では、ウィスキーのにおいがある時が、エタノールのにおいがある時や、無臭(蒸留水)の時より、どの部位でも血流量が多い。 |
ラベンダーのにおいがα波を増やす効果 |
脳の構造 辺縁系は前頭葉の底面に位置する。 (The New Grolier Multimedia Encyclopedia CD-ROM |
痛みの緩和にも「におい」が役立つ?
──どれも興味深い実験結果ですね。医療への応用も進んでいるんでしょうか。
古賀 近年、脳波や血流量の測定技術により、人を使った実験ができるようになったばかりです。これからさらに実験を重ね、本当に「『におい』が心に効く」ということを立証し、精神科の治療法として医療に活用したいですね。
現在も、「アロマテラピー」というものがありますが、これは植物の『におい』の人間に及ぼす影響に注目し、それを心と体の健康増進に積極活用しようという民間療法で、医学的治療ではありません。
──先生のテーマである「心の健康」という観点からはいかがですか。
古賀 今のところ、心身症の治療に有効だろうと思います。この病気は、心の疲れが自律神経の緊張を高め、ストレスがたまってしまい、その結果、体の状態が不調になってしまう病気です。現在、原因である神経の緊張を取り除くのに精神安定剤を使用していますが、それに『におい』を代用できないかと考えています。
──精神安定剤には、副作用や依存の問題もありますから、『におい』にとても期待がかかりますね。
古賀 そうですね。それ以外に、痛みの緩和に利用できないかとも考えています。スポーツでケガなどをしても、試合に勝っている時は何ともないが、負けた瞬間にどっと痛くなるということがあるでしょう。勝っている時の快感と同じような気分を『におい』で再現すれば、痛みを全部取り除くに至らないまでも、軽くできるのではないかと思っています。
また、これらの延長の話ですが、人によって効果のある『におい』が違うので、それを見つけてあげて、薬のように処方できるようにしたいですね。
──いつしか、病気の治療や薬の代りとして利用するとか、はたまた「ちょっと一服」というような感覚で、自分に合った『におい』を日常的に使う時代が来るかもしれませんね。
本日は、非常に興味深いお話をありがとうございました。先生のご研究の成果を、大変楽しみにしております。
『花からのメッセージ 心とからだすこやかに』(法研) |
新たな研究を開始したとのこと。テーマは悪臭が脳の働きに与える影響について
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