こだわりアカデミー
「生」「老」「病」「死」のサイクルを受け入れれば、 認知症は怖いものではなくなります。
認知症と向き合うために
東京大学名誉教授・医学博士
大井 玄 氏
おおい げん
1935年京都府生れ。専門は社会医学、在宅医療、環境医学。63年東京大学医学部医学科卒業後、65〜71年ペンシルバニア大学グラジュエート病院内科助講師、77年ハーバード大学公衆衛生大学院修了、79年早春頃から長野県佐久市の「認知症老人・寝たきり老人」の宅診に関わるようになる。89〜96年東京大学医学部保健学科成人保健学教授、96〜2004年国立環境研究所所長を経て、参与。最近は、NGOの依頼でカンボジア保健園児の健康診断など、臨床医の立場を維持しながら国際保健、地域医療、終末期医療に関わっている。著書は、『終末期医療―自分の死をとりもどすために』『痴呆の哲学―ぼけるのが怖い人のために』(共に弘文堂)、『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)など多数。
2009年5月号掲載
社会や文化の違いによって 「認知症」は「病気」でなくなる!?
──先生は、およそ30年前に「痴呆老人・寝たきり老人」の宅診に携わったのがきっかけで、痴呆老人の心象世界へ深く関わることになったと伺っております。現在、「痴呆症」は「認知症」という名称で呼ばれていますが、認知症とはどんな病気なのでしょうか?
大井 難しいご質問です。そもそも、「病気」というのは文化、環境などによって、捉え方や考え方がまったく違うものなのです。認知症の症状に関しても、地域によっては病気と捉える一方、病気とはみなさない所もあります。
──といいますと?
大井 例えば、自分の能力をもって競争に打ち勝つのが「生き方」であるというアメリカでは、人々は自己の独立性、自立性を失ってしまうと、それは即「死」を意味する、とまで考えます。ですから、そうした能力主義的価値観を持つ、自尊心の高い人が少しでも忘れっぽくなると、それだけで「病気」だと思ってしまう。
一方、沖縄のように敬老思想が強く、老人があたたかく看護され、尊敬されている地域では、徘徊や幻覚、暴言・暴力など、いわゆる周辺症状が見られない限り、認知症であっても、あくまで「老いの過程にある正常な人間」として周囲から見られているのです。
──なるほど・・・。「認知症=病気」であると、一概にはいえないですね。
大井 ただし、病理的に定義すると、脳が萎縮する「アルツハイマー型認知症」や、脳梗塞や脳出血による脳血管障害の後遺症である「脳血管性認知症」などの病気と分類されます。
──それにしても、認知症に対し、地域によってそれほどまでに考え方の違いがあるとは驚きです。
キューバの医療事情を調べに行った際の調査団と(ハバナにて)。キューバでは、日本の3倍程(人口当たり)の医師とナースの数で、徹底的な病気の予防に注力している。乳児死亡率も低く、健康水準は先進国並み<写真提供:大井 玄氏> |
大井 そうなんです。また、調査によると、アメリカでは「認知症を恐れる理由」として圧倒的に、「自己の自立性が失われるから」との回答が多いのに対し、日本では、認知症になったら延命措置を拒否する理由として、圧倒的多数が「家族や周囲の人に迷惑を掛けたくないから」と答えています。つまり、前者は他者と区別した「自己」を強く意識しており、後者は他者との「つながり」において存在する自分を重要視していることが明確です。
「言葉」による「記憶」が自分と周りの世界をつなげている
──認知症の発症率は、高齢になる程高くなると聞いています。これからの超高齢社会に向け、その数はますます増えてくるということですね。
大井 ある論文によれば、2025年には日本の認知症高齢者数が552万人に上る、という推計が出ています。しかし、先程お話しした通り、その数は地域によって相当なばらつきが出てくるでしょう。
──ところで、認知症はどのような過程で症状が進行していくのですか?
大井 私達の思考や推理、判断などは、「言葉」の「記憶」を媒体として行なわれています。そして、他者と自分の世界との「つながり」も、その記憶に基づいています。ところが、認知症では、何らかの原因によって記憶のメカニズムが劣化し、新しいインプット、アウトプットができなくなって、周囲とのつながりが断たれてしまうのです。
──もの忘れがひどくなって、そのうちすぐには言葉が思い付かなくなる。つまり、「記憶をなくす=言葉をなくす」ということなんですね。さらに症状が進むとどうなるのでしょう。
大井 目の前の出来事が「なぜ」起こるのか、それが「どんな意味」を持つのかを推測したり、論理的に考えられなくなります。
──つまり、言葉をなくしたために、推測や論理的思考ができなくなるのですね?
大井 その通りです。ただし、喜怒哀楽の情動だけは残りますが。
──なるほど。そうした老人にいくら理屈で説明しても、こちらの考えは伝わりませんね。
大井 とかく周囲の人達は、強制的に正解を教え込もうとしますが、老人はその行為の意味を理解できません。そんな姿を見て、周囲の人は苛立ち、声を荒げたりしがちです。しかし、老人はその意味が分らず、相手が自分に悪意を持っていると思い込んでしまい、そのストレスだけが残ってしまうのです。
「認知症」と上手に付き合うコツ。4つの大原則とは?
──では先生、どうしたら認知症の老人と上手に付き合っていけるのか、さらに具体的に教えていただけますか?
大井 まず大切なのは、常に「笑顔」で接すること。人間の脳には、ミラーニューロン(鏡神経細胞)という神経細胞があって、これは他の人がしている行動を真似るといった作用を起こさせるものです。
例えば、向かいの人がアクビしているのを見て、自分もアクビしたくなる経験をした方は少なくないでしょう。これと同じで、笑顔を向けられるとついこちらもニッコリしてしまいますよね。
──なるほど。笑顔になれば、嬉しいとか楽しいとか、自然とそうした気分になりますから、たとえ言葉は理解できなくても、情動でコミュニケーションが取れるというわけですね。
大井 そうなんです。逆に、絶対にしてはいけないのは、「怒る」「急かす」「理屈で説明する」こと。笑顔と同じで、怒りの情動も相手に伝わりますから、怒った顔を向ければ、認知症の老人には、自分に悪意を向けている「敵」だと映るのです。
また、急き立てられると、強制されたり拘束されたりするのと同様に、不快感が生じますし、論理的な思考ができなくなった人に理屈で説明しても、混乱や不安を引き起こすだけです。
──よく見掛けるような、つい怒鳴ったり、頭ごなしに叱ったりといった、親が子どもに叱るようなやり方で接してはいけないのですね。
認知症と上手に付き合うコツ 4大原則 |
誰にでも訪れる「死」。まずは受け入れることから始める
──症状はさまざまでしょうが、われわれはいずれ認知症になるんですね。その時を迎えるにあたり、どのような心構えが必要でしょうか。
大井 人間は「生」から始まり、「老」「病」という道をたどって「死」に向かいます。ところが、日常生活を送るにあたり「生」は意識しても、「死」を身近に感じる機会が少なくなってきた現在は、特に「死」について深く考えない方が多いのではないでしょうか。
ここで、タヒチに住むある女性作家の話をしましょう。彼女はよく、野生のウサギや猫、犬が車にはねられているのを目撃するそうです。彼女の周りには、常に「死」があり、その「死」を日常として見ているうちに、彼女自身の「死」に対する恐怖感がなくなってきたというのです。
──つまり、「死」を身近なものとして受け入れた時から、「死」を恐れなくなったということですね?
大井 はい。われわれが「死」を怖いものだと感じてしまうのは、「死」を自然なものとして受け入れていないからなのです。
同じように、認知症に対する恐怖感をなくすためには、まず「死」を受け入れること。そして、「生」「老」「病」「死」のサイクルを自然の移り変りと同じように受け入れることができれば、認知症は決して恐れるものではなく、人生の最後期を特徴付ける老いの表れでしかない、ということに気付くでしょう。
NGOのボランティアとしてカンボジアに出向き、農村の子ども達を検診する大井先生。身体は小さいが、はっきりとした栄養不良の子どもはいなかったという。もともと小児科医になろうと思っていた大井氏は、子ども達が皆可愛く、日本の子どもより大人しいことに驚いたのだとか<写真提供:大井 玄氏> |
──なるほど、そう考えると、穏やかな気持ちで最後の歩みを続けることができそうです。
大井 それに加え、在宅での看取りをおススメします。親を看取ることで認知症の老人への理解も深まりますし、親を大切にしている姿を自分の子供に示しておけば、自分のこともあたたかく看てくれるでしょう(笑)。
──核家族化による介護力不足などで、なかなか実現するのは難しいかもしれませんが、在宅での看取りが当り前にできる環境づくりを目指したいものです。
認知症の原因については、まだまだ分らないことが多いと聞いておりますが、先生の今後ますますのご活躍を期待しております。
本日はどうもありがとうございました。
ブータンの子どもと。途上国で見られるような、子どもの物乞いはまったくいないのだとか。洗っていないような顔をしていても、行儀良くユーモアがある子ども達ばかりだという<写真提供:大井 玄氏> |
『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書) |
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