こだわりアカデミー
ローマ人はこと「食」に関しては ものすごいエネルギーを注いだんです。
ローマ人の食卓−庶民から皇帝まで
ギリシア・ローマ史研究者 和光大学講師
塚田 孝雄 氏
つかだ たかお

1934年横浜市生れ。58年東京大学法学部卒業後、澁澤倉庫に入社。84年澁澤資料館主任研究員を経て財務・総務本部部長補。現在は同社100年史編集委員会委員を務める。その傍ら89年和光大学講師(ギリシア・ローマ風俗史担当)となる。同社に勤めながらギリシア語、ラテン語を独学で勉強するうちに「食」についての研究をするようになる。大学での講義は100人入る教室が満杯になるほどの人気。著書に『シーザーの晩餐』(91年、時事通信社のち朝日文庫より再販)、『食悦奇譯』(95年、時事通信社)、訳書に『パンドラの箱 神話の一象徴の変貌』(75年、美術出版社)、『ペンタメローネ』(94年、竜渓書舎、いづれも共訳)がある。
1997年5月号掲載
庶民の住まいは狭い高層アパートでパンは配給
──先生の著書『シーザーの晩餐』を読ませていただいてちょっと驚いたんですが、1、2世紀のローマでは港区位(21平方キロメートル)のところに120万人もの人が住み、しかもアパートが高層住宅だったそうですね。
塚田 もともと計画性もなかったため、街自体が曲がりくねって非常に狭い。そんなところにみんな集まってきたため住む場所がなくなってしまった、となると高層化するしかないわけでしょう。とにかくレンガを積み重ねていくだけのものですから、ちょっと怖いですよね。それに部屋がとても狭いんです。お手洗いもないし台所も十分でない。
──そうまでしなければならないほど過密状態だったんですから、2000年前といってもゴミ処理やら大変なことだったんでしょうね。
塚田 そうなんです。ですから、まず、炊事その他はできるだけ簡略にさせたんです。例えばパンはタダで配給されました。ローマ市民であること、ちゃんと家賃を払っていることなどの条件さえそろっていれば、大家さんが、こういう人間がいて収入が少なく非常に貧乏していると国に届ける。すると木でつくった「テッセラ」という札をくれるんです。その札をパン屋に持っていくと、現物と交換してくれるというわけです。
ただそのパンも日持ちがするようにつくってあって非常に堅いものだったらしい。ですから、安くて酸っぱいワインを買ってきて、それに浸して軟らかくしながら食べた。おかずは干魚や玉ネギに魚醤(魚から作った醤油のようなもの)の一番安いのをつける、といった具合です。
火を炊くことも原則として禁止なので、七輪のようなものでせいぜいお湯を沸かすくらいですね。
──それじゃまともな料理なんかはできないですね。
塚田 ほとんど無理ですね。男性は現金収入があった時は飲み屋というか食堂、いわゆるタベルナに行きます。
たまに年に何回かは雇い主から宴会に誘われたりしたようです。例えば今自分は歌の稽古をしているからお前ら必ず出席しろ、といったような。本当は聞きたくないけどおいしい料理は食べたいからいくわけです。
──女性は参加できなかったんですか。
塚田 そうなんです。初めのうちは表立ってお酒を飲めなかったんですが、だんだん女性の権力も強くなってきて、1世紀の後半あたりからそういった席に出るようになりました。
ただ女性が出かけるとなると身支度に時間がかかったみたいで、この点は今も昔も変わらないですね。
今年(1999年)3月31日付けで当時勤めていた澁澤倉庫(株)を退職。和光大学以外に跡見学園女子大学の講師などを勤めながら「第2の人生を楽しむつもりです」とのこと。 大学での講義内容は、ギリシア・ローマの風俗、文献学。比較文学。イタリア文学。
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