こだわりアカデミー
人間の言葉には限界があります。 論理を尽し、それを超えたところに 「直観」を求めるのがインド哲学です。
日本仏教とインド哲学
国立民族学博物館教授
立川 武蔵 氏
たちかわ むさし

1942年名古屋生れ。中学・高校時代を浄土宗立東海学園で学び、その影響で仏教、インド哲学に興味を持つようになる。名古屋大学文学部卒業後、ハーバード大学大学院に留学、75年博士号取得。名古屋大学文学部教授を経て、92年より国立民族学博物館教授。専攻はインド学、チベット学。主な調査・研究地域は南アジア。著書に「西蔵仏教宗義研究」(第1巻、第5巻。東洋文庫)、「曼荼羅の神々」(ありな書房)、「空の構造」(第三文明社)、「女神たちのインド」(せりか書房)、「The Structure of the World in Udayana's Realism」(Reidel)、「ヨーガの哲学」(講談社現代新書)、「はじめてのインド哲学」(同、92年)等がある。文学博士。
1994年8月号掲載
日本の仏教はインド仏教のごく一部分
──先生のご専門の「インド哲学」というのは、簡単に言うとどういうものでしょうか。
立川 一口で言うのは大変難しいんですが、分かりやすいところで言いますと、例えばキリスト教の場合は、神が世界を創り人間を創った、とされています。つまり神と人間と世界というものがあって、神だけが聖なるものです。人間は神の道具であり、世界もまた人間の生活のために神が与えてくれた素材、道具と考えているわけです。神と人間の間には非常に大きな隔たりがあるんです。
ところが、インド哲学の考え方は、人間と切り離されたような神は存在しない、また、人間と世界も切り離されてはいないのです。世界が神であり、人間もまたその一部だという考え方なんです。
──人間そのものも神だということにもなるわけですね。
立川 そういうふうにも言えます。
──なるほど。神というものに対する考え方ひとつにしても、西洋思想とは根本的に大きく違うわけですね。
日本の社会、経済は、現在欧米的な発想のものが多くなってきていますが、その割にキリスト教的な思想、つまり絶対神とか超越神というものが馴染まない、また、神のもとでは人間同士皆平等であるという本来の民主主義思想が育たないですね。これは、日本人が根本的にはインド哲学の考え方、つまり仏教思想を持つ民族だからということなんですか。
立川 そういう考え方をする人もおられますが、私はそれには否定的です。確かに日本人には西洋的な世界観は馴染みませんが、だからといって、日本人がインド的思想を持っているというのは、まったく違っていると思います。
なぜなら、日本の仏教の形というのは、仏教全体の伝統から見れば極めて特殊であって、本来の仏教からはかなり遠いものになっているからです。
平安時代の末期まではインド的な仏教だったんですが、鎌倉時代になって道元とか法然、親鸞などが出てきて以後は、本来の仏教が持つ世界観とか論理、認識等が切り捨てられてしまい、念仏とか座禅といった形ある実践だけが継承されてしまいました。
つまり、日本の仏教は、インド仏教のごく一部だけを継承しているに過ぎないわけで、日本人が本来の仏教的思想を持っているとは言えません。
この対談以降も著作活動も精力的に続けている。主なものに、「中論の思想」「ブッダの哲学」(法蔵館)「はじめてのインド哲学」(再版)「日本仏教の思想」「最澄と空海」(講談社)、「密教の思想」(吉川弘文館)「マンダラ瞑想法」(角川書店)、「An Introduction to the Philosophy of Nagarjuna」(Motilal)、「聖なるものへの旅」(人文書院)
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