こだわりアカデミー
人間の言葉には限界があります。 論理を尽し、それを超えたところに 「直観」を求めるのがインド哲学です。
日本仏教とインド哲学
国立民族学博物館教授
立川 武蔵 氏
たちかわ むさし

1942年名古屋生れ。中学・高校時代を浄土宗立東海学園で学び、その影響で仏教、インド哲学に興味を持つようになる。名古屋大学文学部卒業後、ハーバード大学大学院に留学、75年博士号取得。名古屋大学文学部教授を経て、92年より国立民族学博物館教授。専攻はインド学、チベット学。主な調査・研究地域は南アジア。著書に「西蔵仏教宗義研究」(第1巻、第5巻。東洋文庫)、「曼荼羅の神々」(ありな書房)、「空の構造」(第三文明社)、「女神たちのインド」(せりか書房)、「The Structure of the World in Udayana's Realism」(Reidel)、「ヨーガの哲学」(講談社現代新書)、「はじめてのインド哲学」(同、92年)等がある。文学博士。
1994年8月号掲載
自然科学では解明できない生命体の目的
──インド哲学の論理、世界観とはどういったものですか。
立川 まず、西洋思想の論理というのは非常に科学的な展開であり、科学全盛の現代社会をつくりあげる基盤になっているわけですが、これには限界があると思うんです。
例えば、自然全体のプロセスがどちらに向いているのか、進化がどちらの方向進んでいるのか、はたまた宇宙が何のために運動しているのか、ということはまだ分かっていません。しかし、自然全体が一つの生きた生命体として活動していることははっきりしています。われわれ人間もそうした自然の一部であり、こうした生命体の目的について、これまでの西洋の自然科学は、分子と原子とかいう基礎概念によって説明しようとしてきたわけです。しかしそこには、原因とか結果とか、1+1=2といったような言葉の論理だけでは説明できない部分があります。例えばDNAの組合せの現状は説明できても、どうしてそういうふうに組み合さるのかといったようなことが解いていけるかどうかは疑問です。
──それはよく分かります。自然とか進化の歩み等には、科学だけでは解明できない何かを感じます。
立川 インド哲学は、そういうことをすべて人間の言葉(論理)で解明しようとは考えません。もともと言葉というのは、人間がつくりだしたものなのであって、この世の中のすべてを表現できるものではない、限界があると考えるからです。だから、論理を重ねた上で、一度自分たちの持っている論理を壊してみる、あるいは批判し、再反省する。そして言葉を超えた、論理を超えたところで「直観」によって何かをつかもうとするのです。例えば生命とは何か、自然のプロセスとは何かといったものを言語ではない形でとらえようとするのです。それを仏教では「般若の知」とか「空」「無」などと言います。
──「直観」すなわち、悟りを得るわけですね。
立川 それは決して自然科学がだめだということではないのですし、今のインド哲学が現代を救う思想になると言っているわけでもありません。けれども、原子や分子の組合せだけでは解けない限界のところまで来てしまったら、今度は別のコンセプトが求められているのではないか。それがインド哲学かどうかは分かりませんが、今までの論理を再反省するためにも、そういう直観みたいなものに一度突き当たる、あるいは接してみるのも大事なことではないかと思います。
別に私は僧侶ではありませんし、宗教運動家でもありません。仏教に義理があるわけでもないのですが、現代という時代の中で一つの思想を構築していく時には、インド哲学なり仏教はきっとヒントを与えてくれると思っているんです。
この対談以降も著作活動も精力的に続けている。主なものに、「中論の思想」「ブッダの哲学」(法蔵館)「はじめてのインド哲学」(再版)「日本仏教の思想」「最澄と空海」(講談社)、「密教の思想」(吉川弘文館)「マンダラ瞑想法」(角川書店)、「An Introduction to the Philosophy of Nagarjuna」(Motilal)、「聖なるものへの旅」(人文書院)
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